エクアドル:8月10日の「独立の最初の叫び」が生まれた場所――現在も訪れることができる歴史的な2カ所

(Photo:La Palabra Abierta)

1809年8月10日は、エクアドルの歴史に「独立の最初の叫び(Primer Grito de Independencia)」として刻まれている。この出来事によって、首都キト(Quito)は「アメリカの光(Luz de América)」とも呼ばれるようになった。

その前夜から翌日にかけて起きた出来事に深く結び付く場所が、現在もキト歴史地区(Centro Histórico)に残されている。一つは現在もレストランとして営業している建物で、もう一つは修道院の中にある参事会室である。いずれも、1809年8月9日と10日に起きた独立運動の歴史を伝える場所となっている。

 

マヌエラ・カニサレスゆかりの場所

現在、飲食店として営業しているカサ・マヌエラ・レストラン(Casa Manuela Restaurante)は歴史上重要な空間であった。この場所は、エクアドルの独立運動の先駆者たちが集まり、1809年の運動につながる会合を開いた場所として知られている。会合を主導したのは、独立運動の象徴的人物であるマヌエラ・カニサレス(Manuela Cañizares)である。

現在の店内では、カニサレスの肖像画の複製を見ることができる。この肖像画は2021年にエクアドル外務省(Cancillería de Ecuador)へ贈られたものである。また、1809年8月10日の独立議事録(Acta de Independencia del 10 de agosto de 1809)の写しも展示されている。原本は国家銀行歴史文書館(Archivo Histórico del Banco del Estado)に所蔵されている。

カサ・マヌエラ・レストラン(Casa Manuela Restaurante)の経営者パトリシオ・ベドヤ(Patricio Bedoya)によると、店の奥にある部屋では現在も、市当局や共和国政府の関係者による会合が開かれている。

Photo:Museo Manuela Sáenz

マヌエラ・カニサレスとは

マヌエラ・カニサレス(Manuela Cañizares)は、1809年8月10日にキトで起きた政治運動の中心人物の一人であり、エクアドルの歴史において最も広く知られる女性英雄の一人である。

1770年8月29日にキトで生まれた。父はパヤン(Payan)出身で法学士のミゲル・ベルムデス・カニサレス(Miguel Bermúdez Cañizares)、母はある程度の社会的地位を持ちながら、貧しい家庭の出身だったイサベル・アルバレス・イ・カニサレス(Isabel Álvarez y Cañizares)である。非嫡出子であり、父親から十分な面倒を見てもらえなかったため、幼い頃から自力で生きていかなければならなかった。

1797年頃には、独身で子どももなく、クルス・デ・ピエドラ地区(Cruz de Piedra)の借家で一人暮らしをしていた。

自宅を社交と政治の場に

1805年には、コトコジャオ(Cotocollao)にあったグレゴリア・サラサル(Gregoria Salazar)の農園を800ペソで購入し、年間151ペソで貸し出していた。本人の説明によると、収入源はそれだけではなく、レース編みの製作や、祭りなどで使用する衣装の貸し出しからも収入を得ていた。

その後、キトのエル・サグラリオ教区(El Sagrario)の司祭館を借りて暮らすようになると、自宅の広間を会合や談話会の場として開放した。そこでは、政治、芸術、科学、文化などについて語り合われたほか、表向きは慎ましく見えながらも活発だったキトの社交界についても議論が交わされた。

参加者の一人に、反乱志向を持つチュキサカ(Chuquisaca)出身の弁護士マヌエル・ロドリゲス・デ・キロガ(Manuel Rodríguez de Quiroga)がいた。二人は恋人同士だったという噂があった。

カニサレスの広間は、当時の社交の場として機能しており、彼女を中傷する人々が主張したような「売春宿」ではなかった。

1809年8月10日の運動

1809年8月9日の夜、カニサレスの自宅の広間では、聖名祝日の祝いが開かれていた。彼女はキトのエル・サグラリオ教区の司祭の家を借りて暮らしており、その家は現在のガルシア・モレノ通り(García Moreno)にあった。しかし、聖名祝日の祝いは、キト革命(Revolución de Quito)を準備するための陰謀を隠すためのものにすぎなかった。

クーデターを起こすことに一同がためらっていた際、カニサレスは彼らを「臆病者」「隷属するために生まれた男たち」と呼び、政府委員会(junta de gobierno)の結成へと駆り立てた。

この夜から翌朝にかけての出来事によって、カニサレスは1809年8月10日の運動を象徴する人物となった。

短命に終わったキトの政府委員会

キトの政府委員会(Junta quiteña)の活動は不安定で、数カ月のうちに敗北した。指導者たちは逮捕され、多くの者が王党派(realistas)によって殺害された。カニサレスも追われる身となり、ロス・チジョス(Los Chillos)の農園に身を隠さなければならなかった。王党派を支持する人々が配った中傷ビラ(pasquines godos)は、カニサレスや、陰謀に加わった他の女性たちを苦しめ続けた。その一つには、次のように書かれていた。

私の不幸を企てたのは誰?
トゥド。
私の苦しみを増やすのは誰?
カニサレス。
そして私の破滅を望むのは誰?
ラレア。
そして、そう望むのだから、
この三人の哀れな女たちが
絞首刑になるのを見たいものだ。
トゥド、カニサレス、レア。

晩年と死

自宅の広間を政治的な会合の場として開放し、8月の陰謀を主導したことで、カニサレスは大きな代償を負うことになった。キトに戻ることが許された後も、カニサレスはサン・ロケ地区(San Roque)の友人宅に身を寄せて暮らした。その後、病気を患い、さらに事故によって体調を悪化させた。

1814年8月27日に遺言を作成し、同年12月15日に亡くなった。死去した場所については、サンタ・クララ修道院(Santa Clara)だったとする説と、ロス・チジョスだったとする説がある。墓は残されなかった。

「偉大な女性英雄」として再評価

長い間、男性中心の独立史の中で、カニサレスは二次的な人物として扱われていた。

しかし、近年数十年の研究によって、彼女は1809年8月10日の運動を象徴する「偉大な女性英雄」として再評価されている。

 

聖アグスティン修道院の参事会室

もう一つの歴史的な場所が、カサ・マヌエラ・レストランから数分の場所にある聖アグスティン修道院(Convento de San Agustín)の参事会室(Sala Capitular)である。

聖アグスティン修道会(Orden de San Agustín)は1569年以前にキトへ到来していた。その後、修道会の恒久的な設置が進められ、エストレマドゥラ(Extremadura)出身の建築家フランシスコ・ベセラ(Francisco Becerra)が教会と修道院の設計図を作成し、両方の基礎工事を担当した。1606年からは、ブルゴス(Burgos)出身の建築家フアン・デル・コラル(Juan del Corral)が工事を引き継いだ。

Photo:Ministerio de Empleo y Seguridad Social de España

聖アグスティン修道院の建築

壮大で豊かな装飾を持つ教会のファサードは、10年をかけて建設された。その間には複数の出来事があり、そのことはファサードに刻まれた碑文にも記されている。碑文には、1660年10月27日午前9時にピチンチャ火山(Pichincha)が噴火したこと、1662年11月23日に地震が起きたこと、この正面玄関が1659年に着工され1669年に完成したことなどが記されている。

歴史家フリオ・パソス・バレラ(Julio Pazos Barrera)は、このファサードについて、柱や分割されたペディメント、球体、切石積みの石材などがサン・フランシスコ修道院(San Francisco)のファサードから着想を得ている一方、その他の部分には17世紀バロックの特徴が表れており、特に空間全体を覆う葉の装飾が目を引くと説明している。また、ファサードの片側には二層構造の太い塔がそびえている。

当初の修道院全体は、9つの礼拝堂を備えた教会、複数の回廊、聖具室、病室、食堂、庭園などで構成されていた。教会内部には、キトの主要な教会に見られる壮麗な装飾が残されている。

格天井、装飾、祭壇衝立、彫刻には、キトの主要な教会に共通する豊かな様式が受け継がれている。

17世紀に造られた回廊について、パソス・バレラは、異なるリズムを持つ二つの古い柱廊がバロックへの傾向を示しており、その回廊の中でも最大の見どころが参事会室であると説明している。参事会室の装飾は18世紀のもので、精巧な彫刻を施した座席、聖人の絵で飾られたムデハル様式(estilo mudéjar)の格天井、17世紀の古いキリスト像を配したカルバリオ(Calvario)の金箔祭壇衝立などがある。ムデハル様式とは、中世のスペインやポルトガルで発展した、イスラム建築とキリスト教建築が融合した独特の建築様式を指す。レコンキスタ(国土回復運動)後もキリスト教圏に残留したイスラム教徒の職人らによってもたらされ、レンガやタイルを用いた緻密な幾何学模様の装飾が特徴となっている。

Photo:Agustinos

植民地時代に伝わる物語

聖アグスティン修道院の歴史には、植民地時代の物語も残されている。修道院の向かい側の通りは、社会的身分の異なる二人の恋人を主人公とする悲恋の舞台になったと伝えられている。「ロミオ」に当たる若者は財を築いた後、恋人が身分の高いカスティリャ(Castilla)出身の男性と結婚する直前、当時の慣習に従って花嫁から施しを受けるため、乞食に変装したという。しかし、施しを受けるために手を差し出す代わりに、侮辱された若者は聖アグスティン修道院の向かいの通りで少女の心臓に短剣を突き刺したとされる。

こうして、この物語では恋愛が殺人という結末を迎えた。

聖アグスティン修道院と博物館

回廊の1階に収められている美術品の中でも、特に重要なのが「聖アグスティンの戒律(Regla de San Agustín)」を題材とした絵画である。これは、修道院の創設者である聖アグスティンの生涯を描いた作品群の中でも重要な作品とされている。高さ8メートル、幅6メートルの巨大な作品で、植民地時代を代表する画家の一人ミゲル・デ・サンティアゴ(Miguel de Santiago)が完成まで2年を費やした。

主要回廊には、壁や天井を含め、非常に価値の高い美術作品が残されている。その豊かな装飾は、キトの他の多くの建物に見られる簡素な装飾とは対照的である。特に目を引くのが、ミゲル・デ・サンティアゴがバシリオ・デ・リベラ神父(Basilio de Ribera)の後援を受けて描いた、聖アグスティンの生涯を題材とする一連の絵画である。

回廊の中央には噴水を備えた大きな中庭があり、その周囲には二重の回廊が設けられている。美術評論家ホセ・ガブリエル・ナバロ(José Gabriel Navarro)は、上部回廊の構成について、世界の建築史における新たな建築的動きを示すものだと評価している。

中央回廊の下層には、幾何学的な形と植物文様で装飾された格天井がある。そこからは、人間の胸像をあしらったエスティピテによって区切られた聖アグスティンの絵画群へと続いている。

現在では、かつて回廊やその他の修道院施設として使われていた古い建物の一部が、聖アグスティン博物館(Museo de San Agustín)として利用されている。400年以上の歴史を持つ建築物の中に、重要な美術作品が収蔵されている。

館内では、植民地時代を代表するもう一人の画家ベルナルド・ロドリゲス(Bernardo Rodríguez)が1797年に制作した聖人を描いた一連のカンバス作品も見ることができる。また、サングリマ(Zangurima)やカスピカラ(Caspicara)など、高く評価された彫刻家による作品も収められている。

Photo:Agustinos

参事会室

キトのサン・アグスティン修道院にある参事会室(Sala Capitular)は、植民地時代の芸術と、1809年のキト革命の歴史を同時に伝える重要な空間である。

参事会室は本来、修道士たちが修道院内の重要事項について話し合ったり、通常または臨時の会合を開いたりするための部屋である。また、宗教的な儀式にも使用されてきた。しかし、サン・アグスティン修道院の参事会室は、単なる修道院施設の一室にとどまらない。精緻なバロック様式の装飾を備える美術空間であると同時に、エクアドルの独立史を伝える歴史的な場所でもある。

18世紀半ばに造られた参事会室について、『エクアドル美術史(Historia del Arte Ecuatoriano)』を刊行したサルバト出版社(Salvat)の専門家たちは、精巧な芸術的装飾が施され、音響効果を高める貝殻状の装飾を頂部に備えた観覧席が設けられていると説明している。

室内には、前面と背面に透かし彫りを施した座席が幾重にも並び、奥の壁全体を覆うカルバリオ(Calvario、キリスト磔刑)の祭壇衝立も設けられている。

格天井には、円、楕円、メダリオンを基調とした幾何学的な構成が施され、天井に沿って平行に並ぶ区画には絵画が配置されている。天井の傾斜部分には、アウグスティヌス修道会の聖人や聖女が描かれている。

室内の装飾はバロック様式で、多くの絵画は植民地時代を代表する画家ミゲル・デ・サンティアゴ(Miguel de Santiago)の作品とされている。一方、格天井の絵画については、修道院に残る文書から、エスパダニャ(Espadaña)という姓の画家によるものと考えられている。

この参事会室には、建築や美術とは別に、エクアドルの独立史に関わる重要な歴史がある。

1809年8月10日、ここでキト主権評議会(Junta Soberana de Quito)の宣誓が行われ、8月10日の独立運動を正式に確認したとされている。また、1809年の革命後、スペイン王党派による弾圧で命を落とした独立運動の先駆者たちの一部の遺骨も、この場所に安置された。

そのため、サン・アグスティン修道院の参事会室は、単なる宗教施設の一室ではない。キトの植民地期バロック芸術を現在に伝える文化財であると同時に、1809年8月10日のキト革命と、その後のエクアドルの独立史を物語る歴史的空間でもある。

現在の参観

参事会室は月曜日から金曜日まで一般公開されている。ただし、8月の祝日期間中は通常どおり自由に見学できない可能性がある。

聖アグスティン修道院の秘書兼学芸員ヤディラ・メロ(Yadira Melo)によると、聖アグスティン教会(Iglesia de San Agustín)では、2023年8月9日に殺害されたフェルナンド・ビジャビセンシオ(Fernando Villavicencio)の死を悼むミサが予定されていたためである。

#キト観光

 

参考資料:

1. En estos lugares se forjó el Primer Grito de Independencia del 10 de agosto y se los puede visitar
2. Manuela Cañizares, la gran heroína del 10 de agosto
3. Convento San Agustín – Quito
4. Imágenes del Primer Grito de la Independencia en Ecuador

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