(Photo:PRIMICIAS)
1809年8月10日、キトで起きた革命は、現在のエクアドルにつながる自治・独立運動の重要な転機となった。この革命では、マヌエラ・カニサレス(Manuela Cañizares)、フアン・ピオ・モントゥファル(Juan Pío Montúfar)、フアン・デ・ディオス・モラレス(Juan de Dios Morales)、カルロス・モントゥファル(Carlos Montúfar)などが知られている。
その一方で、1809年のキト革命から1812年の「キト国(Estado de Quito)」成立に至る政治過程で重要な役割を果たした人物がいる。キト司教ホセ・クエロ・イ・カイセド(José Cuero y Caicedo)である。しかし、現在のエクアドルでは、その名はほかの独立運動の指導者たちほど広く知られていない。
クエロ・イ・カイセドは、1809年8月10日に成立した統治委員会(Junta de Gobierno)を支持した。1810年8月2日、前年の革命に関与して拘束されていた人々の一部が殺害される事件が起きると、市内では住民と王党派軍との衝突が発生した。クエロ・イ・カイセドは、この混乱を収めるために仲介に入り、住民の安全を確保するための和解案を提案した。さらに1811年にはキトの政府を率いる立場となり、議会の招集や政治制度の整備にも関わった。
このように、クエロ・イ・カイセドは司教として宗教的な権威を持つ一方、キトの自治政府を支える政治指導者としても活動した人物である。
なぜクエロ・イ・カイセドは広く知られてこなかったのか
クエロ・イ・カイセドが現在、ほかのキト革命の指導者ほど広く知られていない背景には、彼がカトリック教会の高位聖職者であったことも関係している。
スペイン領アメリカでは、多くの司教がスペイン王室への忠誠を維持し、反乱や革命を批判した。当時の聖職者には、王室による教会支配制度であるレアル・パトロナト(Real Patronato)や、ブルボン朝の王権主義のもとで、国王への忠誠が求められていたためである。
しかし、クエロ・イ・カイセドは、こうした立場とは異なる道を取った。1809年のキト革命を支持し、新たに設立された統治委員会に加わったのである。その後も彼は、司教としての宗教的な立場に加え、政治的な立場からキトの自治を支えた。こうした役割から、クエロ・イ・カイセドは、1809年のキト革命から1812年のキト国成立に至る政治過程を理解するうえで重要な人物である。
啓蒙思想に触れた聖職者
ホセ・クエロ・イ・カイセドは、1735年9月12日、カリ(Cali)で生まれた。当時のカリは、ヌエバ・グラナダ副王領(Virreinato de Nueva Granada)に属するキト王立アウディエンシア(Real Audiencia de Quito)の管轄下にあった。父はスペインのブルゴス(Burgos)出身のフェルナンド・デ・クエロ・イ・ペレス・デ・ラ・リバ(Fernando de Cuero y Pérez de la Riva)、母はカリ出身のベルナベラ・デ・カイセド・イ・ヒメネス(Bernabela de Caicedo y Jiménez)で、6人兄弟の次男であった。
ポパヤンのイエズス会神学校(Seminario de los Jesuitas de Popayán)で学び、1756年に学士号、1758年に修士号、1762年に博士号を取得した。この時期に司祭に叙階された。その後キトへ移り、イエズス会系のサン・グレゴリオ大学(Universidad de San Gregorio)で学んだほか、ドミニコ会(Order of Preachers)が運営していたサント・トマス・デ・アキノ大学(Universidad de Santo Tomás de Aquino:USTA)で法律を学び、1768年に卒業した。同年6月20日にはキトの弁護士会に登録された。
1767年にスペイン王室によってイエズス会(Society of Jesus:SJ)が追放されると、クエロ・イ・カイセドは、かつて同会が運営していたサン・ルイス神学校(Seminario de San Luis:SLS)の再開と運営に携わり、哲学を教えた。そこでは伝統的なアリストテレス哲学だけでなく、ルネ・デカルト(René Descartes)やピエール・ガッサンディ(Pierre Gassendi)の思想も扱い、当時広がっていた新しい思想にも触れた。
1778年にはキト大聖堂の聖職者となり、キト司教区の行政にも携わった。1789年にはサント・トマス・デ・アキノ大学(USTA)の臨時学長を務め、同年にポパヤン司教に任命された。その後、クエンカ(Cuenca)司教を経て、1799年にキト司教に任命され、1801年からキト司教として教区を率いた。
聖職者としての活動に加えて、クエロ・イ・カイセドは当時の知的潮流とも関わった。1791年には「祖国の友の愛国協会(Sociedad Patriótica de Amigos del País:SPAP)」の創設メンバーとなり、1793年にはエウヘニオ・エスペホ(Eugenio Espejo)の招きを受けて「コンコルディア学派(Escuela de la Concordia)」に加わった。これらの組織には知識人や貴族らが参加し、啓蒙思想を広める活動が行われていた。
このように、クエロ・イ・カイセドは聖職者としての教育と経歴を重ねる一方、啓蒙思想や当時の知的潮流にも接していた。その後、キト革命を支持し、政治指導者として活動することになる背景には、こうした教育と知的活動の経験があった。
キト政庁への批判
当時のキトでは、スペイン王室による統治への不満が強まっていた。ブルボン改革によって中央集権的な統治が進み、教会も従来の特権や免除を失いつつあった。
クエロ・イ・カイセド自身も、キト政庁の当局者たちに批判的だった。1809年、彼はスペイン本土の中央当局に宛てた報告の中で、キトを統治する当局者たちの職務怠慢や腐敗を厳しく批判している。また、教会の権限に対する世俗権力の介入にも抵抗しており、キトの行政当局との関係も良好ではなかった。
1809年8月10日――クエロ・イ・カイセドによる革命支持
1808年、ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte)がスペインへ侵攻し、国王フェルナンド7世(Fernando VII)が拘束されると、スペイン領アメリカでは統治の正統性をめぐる問題が生じた。キトでも、スペイン本土の政治的混乱を背景に自治を求める動きが強まった。
1809年8月9日の夜、革命派は翌10日に蜂起することを決定した。翌日、キトではアウディエンシアの当局者が追放・逮捕され、最高統治委員会(Junta Suprema de Gobierno)が設置された。
当時、クエロ・イ・カイセドはキトを離れていた。しかし革命派は彼を委員会の当然の委員に任命した。要請を受けてキトへ戻った司教は、8月15日にその職を受け入れて宣誓した。
彼が支持した革命の理念は、当初からスペイン国王そのものを否定するものではなかった。革命派は、キリスト教を守り、国王の権利を守り、住民の幸福を追求することを掲げていた。
クエロ・イ・カイセドもこの立場を支持し、新政府の官吏の宣誓を受けるとともに、王室による干渉を排除するための措置に加わった。
革命の挫折と弾圧
しかし、キトの最高統治委員会は長く存続しなかった。キトは周辺地域から十分な支持を得ることができず、王党派側から軍事的圧力を受けたためである。1809年10月までには王党派当局が復帰した。同年12月、8月革命の関係者に対する刑事訴訟が開始され、革命参加者は大逆罪の被告として逮捕された。
クエロ・イ・カイセドも告発の対象となった。検察官は、革命の陰謀に関与したこと、住民に革命を支持するよう説得したこと、新政府の承認と宣誓の式典に参加したことなどを問題とした。
これに対してクエロ・イ・カイセドは、自分が委員会に参加したのは、宗教、国王の権利、祖国を守るためだったと説明した。また、革命に関与していた検察官自身には、国家反逆事件で自分を告発する資格がないと反論した。
この裁判はサンタフェ副王領(Virreinato de Santa Fe)の当局に送られ、クエロ・イ・カイセドはその後もキトで活動を続けた。
1810年8月2日――革命関係者の殺害と仲介
1810年8月2日、キトの刑務所に拘束されていた革命関係者の一部が殺害された。これをきっかけに住民と王党派軍との衝突が発生し、市街地では追跡や略奪、殺害が相次いだ。事態の拡大を恐れた当局は、住民を鎮静化するためクエロ・イ・カイセドに介入を求めた。
司教は宗教関係者と協議し、1809年8月10日の出来事をめぐる裁判の停止、裁判中の者や逃亡者への恩赦、王党派軍の撤退、住民による民兵の組織、国王特使カルロス・モントゥファルの受け入れなどを含む合意案を提示した。
その後、1810年9月19日の公開拡大会議で、キト上級統治委員会の設立が決定された。クエロ・イ・カイセドは当然の委員となり、国王特使カルロス・モントゥファルも当然の委員として加わった。
1811年――キトの政府を率いるクエロ・イ・カイセド
1811年10月、ルイス・デ・カスティリャ伯爵(Luis de Castilla)が最高統治委員会の議長を辞任すると、政府はクエロ・イ・カイセドの手に移った。こうして彼は、司教としての宗教的権威に加えて、政治的な権力も持つことになった。
彼が大統領職を受け入れた目的の一つは、住民の間の対立を抑え、キト政庁の内外から生じていた報復や復讐の連鎖を終わらせることだった。同時に、革命を一時的な政治運動で終わらせず、恒久的な制度として組織する必要があると考えた。
そのため、議会の招集が進められた。議会には、キト市の世俗参事会(Cabildo Secular)、教会参事会(Cabildo Eclesiástico)、世俗聖職者、修道会、貴族、各地区の代表者に加え、イバラ(Ibarra)、オタバロ(Otavalo)、ラタクンガ(Latacunga)、アンバト(Ambato)、リオバンバ(Riobamba)、グアランダ(Guaranda)、アラウシ(Alausí)などの各地域からも代表者が参加することになった。
1811年12月11日には選挙が実施され、大統領宮殿でクエロ・イ・カイセドと各地域の代表者が集まり、政府の再編と政治制度の整備が進められた。
「キト国」は誰が主権を持つのか
議会が直面した最大の問題は、キト諸県の主権を誰が行使するのかという点だった。フェルナンド7世を代表するとされた最高摂政評議会(Junta Suprema Central y Gubernativa del Reino)とスペイン議会を引き続き認めるのか、それとも国王が拘束されている間、自分たち自身が暫定的に主権を行使するのかが議論された。
最終的に、スペイン側の議会に対する承認は暫定的なものだったと解釈された。一方で、フェルナンド7世への忠誠は維持された。つまり、キト側が当初から目指していたのは王政の廃止ではなく、国王への忠誠を維持しながら、キト諸県が自ら政治を行う自治的な体制だった。
しかし、スペイン本土ではナポレオン・ボナパルトによる軍事的圧力が続いていた。キト側では、スペイン本土が完全にフランスの支配下に入れば、自分たちの安全と統治を自ら維持しなければならないという危機感が強まった。そのため、キト諸県は自らの行政能力と防衛能力を整え、政治的権利を確立する必要があると考えた。
「キト国」の成立へ
こうした議論を経て、キトでは自ら主権を行使する政治体制が形づくられていった。議会は、キト王国を構成する諸県が、自らに属する主権の行使と暫定的な行政を取り戻し、スペイン本土の最高摂政評議会や臨時議会に対する暫定的な承認から解放されるという考えを示した。ただし、フェルナンド7世を正当な国王として認める立場は維持された。
こうして、キトでは独自の政府、議会、行政制度、軍事防衛体制を整える動きが進み、1812年の「キト国」へとつながっていった。
クエロ・イ・カイセドは、この政治過程の中心にいた人物の一人であった。
スペインによる再征服と追放
キトの自治体制は、最終的にスペイン側の軍事的反攻によって崩壊した。スペイン軍がキトを制圧すると、革命と自治運動に関わった人々への追及が再び始まった。クエロ・イ・カイセドも起訴され、司教としての地位を失い、財産を没収された。1815年にはリマ(Lima)へ送られた。リマでは貧困と病気に苦しみ、1815年12月10日に死去した。
200年後、遺骸はキトへ戻った
クエロ・イ・カイセドの死後、遺骸は長くリマに残された。2015年には、死去から200年を迎えることを機に、エクアドル側から遺骸をキトへ移すことを求める動きが起こった。翌2016年9月12日、遺骸はキトへ移され、メトロポリタン大聖堂(Catedral Metropolitana de Quito)の地下納骨堂に安置された。
そこには、アントニオ・ホセ・デ・スクレ(Antonio José de Sucre)やカルロス・モントゥファルなど、エクアドルの独立史に関わる人物の遺骸も安置されている。
参考資料:
1. 10 de Agosto: Quién fue el obispo José Cuero y Caicedo, figura clave pero marginada de la Independencia de Ecuador
2. José Cuero y Caicedo – Historia Hispánica
3. Moreno-Egas, J. (2016). Obispo y presidente del Quito libre: el doctor José de Cuero y Caicedo 1811-1812. Lienzo, 037, 311-327. https://revistas.ulima.edu.pe/index.php/lienzo/article/view/1236

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