48年前の「9.11」、オーストラリアによって公開された秘密文書

「9.11」、近年においては米国で発生した同時多発テロを思い浮かぶ人も多いことだろう。2001年9月11日朝(米国時間)に起きたそれは私にとっても極めて思い入れの深いものとなった。理由は割愛するが、10日夜(日本時間)公共放送を通じて、その事件を目の当たりにした。

特にワールドトレードセンター(WTC)におけるそれは(極めて失礼だが)まるで映画のようで、アメリカン航空11便の衝突後、ユナイテッド航空175便が突っ込む姿を「NHKニュース10」を通じて「生中継」で目撃してしまったことを今でも強い衝撃とともに覚えている。その攻撃は国防総省本庁舎(ペンタゴン)、さらにユナイテッド航空93便はペンシルベニア州ピッツバーグ郊外シャンクスヴィルに墜落した。イスラーム過激派テロ組織アルカイダによって行われた4回のテロ攻撃は、アメリカ合衆国に対する世界中を震撼させるとともに、アメリカ合衆国を報復戦争へと導いた。対テロ戦争を始めたこの時の米大統領はジョージ・W・ブッシュ(George Walker Bush)だ。本事件を首謀したとされるウサマ・ビン・ラディン(Usāma bin Muhammad bin ʿAwad bin Lādin)は事件直後での発言を翻し、2004年にテロ事件の責任者が自分であると認めている。アフガンにおける報復戦争は2021年8月30日、20年の時を経て、バイデン大統領の声明「アフガニスタンでの20年におよんだアメリカ軍の駐留は終わった」とともに軍の完全撤退の完了とともに、軍事作戦終了の宣言をもって終わることとなる。この報復戦争に関しては、各々考えを持っていると思うが、ここでの言及は避けておくこととする。なお、ビン・ラディンは2011年5月2日、パキスタンのアボッターバード(Abbottabad)に潜伏していたところをアメリカ軍特殊部隊によって殺害された。

2011年5月2日に始められた米軍による「ネプチューン・スピア(海神の槍)作戦」はオバマ(Barack Hussein Obama II)によって承認されたが、この作戦の目的はコードネーム「ジェロニモ」ことビン・ラディンの殺害にあった。特殊部隊は標的とその家族がいる建物の敷地内に、ロープをつたってステルス型UH-60 ブラックホークヘリコプター2機とCH-47 チヌーク2機から降下、建物を急襲した。2階・3階部には午前1時ごろに突入している。10年間の逃亡の末、ターゲットは頭部と胸部を撃ちぬかれた。この時の映像はオバマ大統領ら閣僚に「生中継」されていたという。

 

 

米国における同時多発テロ以前における「9.11」と言えばチリにおけるクーデターを思い出す人もいるだろう。

オーストラリアは1970年代にチリでのスパイ活動とサルバドール・アジェンデ(Salvador Guillermo Allende Gossens)政権への米国の介入、それの支援を直接的にしていたことをこのたび発表した。9月10日に公開された情報機関の文書によると、CIA(米中央情報局)の要請に基づき、同国は1971年から1973年にかけて首都サンチアゴに「ステーション」を設置、1年半に渡り諜報活動の結果をバージニア州ラングレーのCIA本部に報告書として直接送信していた。なおオーストラリア秘密情報局(Australian Secret Intelligence Service:ASIS)自体の活動は1973年7月に終了するも、クーデター発生後も諜報員がチリに残っていたことがわかっている。スパイたちが南米から完全に撤退したのは、軍事介入によってアウグスト・ピノチェト(Augusto José Ramón Pinochet Ugarte)が17年間にわたって血まみれの独裁体制を敷き、死、失踪、拷問を繰り返した後のことだった。

公開文書にもあるが当時のオーストラリア首相エドワード・ゴフ・ホイットラム(Edward Gough Whitlam)は自分が個人的にチリでの米国の活動に反対しているとか、アジェンデを支持していると思われてしまうことを最も懸念していたという。当時のASIS長官ウィリアム・ロバートソン(William Robertson)のメモによると首相は、オーストラリアの関与には「不快感」を感じており、その背景にもしオーストラリアの関与が暴露され知られることになれば、その支援を正当化することは極めて難しいと考えていたことによる。それでも、米国の目が怖く、首相は「アメリカ人にとってこの作戦がどれだけ重要性かは十分認識している」と表明、支援を行なった。

Gough Whitlam

Gough Whitlam

 

今回公開された文書は以下のようなもの。

開示文書1
ASIS, memorandum, [Approval to Open Station], ca. December 1970, Secretにはステーションの誕生の経緯と、外務大臣ウィリアム・マクマホン(William McMahon)によるステーション設置の承認、さらにコードネーム「MO9」とすることが記載されている。

 

開示文書2
ASIS, Memorandum, [Concerns about Opening Station], ca. 15 June 1971, Secretに書かれているのは、ステーション開局まで数週間と言ったところで浮上してきた懸念についてだ。チリの状況が懸念されたほど悪化していないことから開局を延期すべきなのではないかと言う疑念があったようだ。CIAとの取り決めに従って開局を進めるべき理由も書かれている。開局の12カ月後にチリにおけるオーストラリアの役割も見直すとされている。

 

開示文書3
ステーション開局から6ヶ月経て、進捗報告書をASIS本部(メインオフィス)に送信。試運転によって発生した問題、オーストラリア大使館員やCIAとの交流などが書かれている。詳細はほぼ黒塗り。これはASIS, Report, “1971 Progress Report,” December 1971, Secretに記載されている。

 

開示文書4
ASIS, Memorandum, “[Deleted] Relations with [Deleted],” December 1972, Secretでは、米政策や作戦に対するタイムリーなコミュニケーションできていない、メインオフィスとのコミュニケーションにおいても運営上の問題があることなど、諸問題が記載された。予算の問題で電信通信が頻繁に使えないことから、英国大使館の安全な袋を使って秘密文書を送付していた。

 

開示文書5
ASIS, Memorandum of Conversation between Prime Minister Whitlam and ASIS Director William T. Robertson, “Review of the MO9 Station in Santiago,” April 1973, Top Secretに書かれていたのは、ASISが提案した秘密活動の継続をゴフ・ウィットラム首相が現状報告会で拒否、これにより諜報活動の中止が決まったと言うこと。ASIS長官ウィリアム・T・ロバートソン(William T. Robertson)に首相はCIAの機嫌を損ねない方法での駐在所の閉鎖を行うよう命じている。

 

開示文書6
ASIS, Note to File, “[Redacted] Station,” 6 April 1973, Top Secretは上述の現状報告会のコミュニケーションログ。「首相は、CIAを困らせるような性急な行動をとることは、一番避けたいことだと言っていた」と首相の懸念が強調されている。

 

開示文書7
ASIS, Telegram, [Director-General Robertson’s Report to the Santiago Station officers on Prime Minister Whitlam’s Decision to Close Down their Operations], May 1973には駐在員に業務停止の決定を伝える電報を打ったことが書かれている。首相は「我々の秘密の活動」を「できるだけ早く」中止するように命じたようだ。なおここでも首相は米国全般、また、特にCIAが撤退に伴う誤認をすることが懸念としている。

 

開示文書8
ASIS, Memorandum, [Instructions to Coordinate Closing of ASIS Station in Santiago], circa April 1973では首相によるASISの閉鎖決定の理由が最も明確に説明されている。オーストラリアが果たした役割が公になれば、「首相は極めて困難な政治的状況に陥るだろう。明らかに、サンチアゴにおけるMO9の存在がオーストラリアの直接的な国益にかなっていると提示することは不可能だからだ」、そう書かれている。ASISの閉鎖が迫っていることを示すメモが、オーストラリアの国家安全保障上の高官たちに配布された。

 

開示文書9
ASIS, Memorandum to Whitlam, “Progress Note on Closure of MO9 Station in Santiago,” 1973, Top Secret
「サンチアゴのMO9局を閉鎖するというあなたの決定に関して、閉鎖が完了したことを報告したいと思う」と長官から首相に宛てた2ページの極秘メモに書かれている。局の閉鎖の詳細は黒塗り、文書の日付も開示されていないため、この文書がいつ送信されたのかは不明。この文書は、ウィットラム用に1部、ASISのファイルに1部の計4部しか作成されていない。黒塗りが多すぎて100文字にも満たない開示文書から何かが読み解けるのか些か疑問である。

 

開示文書10
ASIS Station, Santiago, Telex Cable, [Station Closing Status Report], July 1973に書かれたのは閉鎖に伴う事務的なことだ。経費報告書や領収書の送付、年内に母国に返送される予定の機器類の処分などが完了し、「残っていた局の記録などはすべて破棄した」と電報は述べた。

 

特定文書には諜報活動開始とともに購入するよう勧められた推定1,800ドル程度で購入するよう勧めていましたライトグレーかベージュ色のフォルクスワーゲン・ビートルは事業終了とともに資産を処分しようとした時、サンチアゴで起きた暴動と対立派閥の衝突で破損した。ただし、この車両は、購入当時よりも高い価格で販売されたなども報告されている。

アジェンデは1970年に左翼政党の連合体であるUnidad Popularから大統領として民主的に選出された。左翼政権の台頭は米国にとって好ましくなく、それゆえ親米派アウグスト・ピノチェット将軍を米国は支援し、クーデターを1973年9月11日に起こさせた。大統領官邸「ラ・モネダ」でアジェンデは殺害され、何千人もの人間が失踪し、政治的事由で拷問や処刑が繰りかえされた。国民的シンガーソングライター、ビクトル・ハラもまたその被害者だ。(参考ページはこちら)なお、クーデターの3年前にも、CIAはチリにおける極秘作戦遂行のためにASISに協力を求めていたことは分かってる。

元機密文書はワシントンのシンクタンクであるナショナル・セキュリティ・アーカイブ(National Security Archive:NSA)が公開したもので、同社の歴史家ピーター・コーンブル(Peter Kornbluh)もクーデターは「民主的に選ばれたサルバドール・アジェンデ政権を不安定にするため」のものだったと述べた。これについては何年も前に、チリ記憶人権博物館に保管された機密解除文書にも記載されている。

 

チリのクーデターを間接的であれ支援したのはオーストラリアだけではない。ブラジルまた然りだ。他国による認知とともに、重要文書の公開は、チリにおける暗い過去の解明にも役立つ。今回オーストラリアで公開された文章は過去にも流出しているが、今回読むことができたのは電報やメモ、報告書から読み取れたのはおおよそ諜報部の設立経緯、人材配置、供給、管理といったありふれた内容で、毎月の経費報告、住居の手配、通信手段、保安検査、ASISエージェントがサンチアゴで使用する金庫やカメラ、文房具、車などの備品を入手するために必要だった多数の承認要求などである。つまり数百枚に及ぶ機密文書は大幅に黒塗りされたから、多くの重要なことは闇に隠されたままとなっている。政府は非公開にしている理由を「チリでのクーデターに関する文書を機密解除をすることは、国際関係や国の安全保障を危うくする 」と考えているからだ。なお、クーデターの関与をオーストラリアが全く認めていないかと言えばそうではなく2014年に死去したウィットラム元首相は、「私が政府に就任していたとき、オーストラリアの情報機関の職員がCIAの代理人としてチリ政府を不安定にするために活動していたことは、書かれているし、否定もできない」と認めている。

 

今回の文書の機密解除は、元オーストラリア陸軍の情報分析官で、キャンベラにあるニューサウスウェールズ大学の国際・政治学教授であるクリントン・フェルナンデス(Clinton Fernandes)が行った一連の情報公開請求を受けてのことだ。ただし、今回の開示が多くの黒塗りを伴ったこともあり、同士は歴史的記録のさらなる機密解除と、検閲なしでの文書の再公開を求めている。現在、オーストラリアの裁判所では、チリに関するこれらの歴史的記録を政府に強制的に開示するかどうかが審議されている。「オーストラリア政府は秘密主義の文化で有名だ」、そう2年前に取りまとめたのはNew York Timesである。なお1990年に出版された調査史『Oyster: The Story of the Australian Secret Intelligence Service』には対してもオーストラリア政府は出版前に検閲し、ASISのチリ活動に関する詳細のほとんどを隠蔽した。

クーデターから48年を迎えた2021年9月11日、Convergencia Social (CS)、共産党 (PC)、社会党 (PS)、民主党 (PPD) の各党首のほか、無所属の人々も出席し式典を行なった。社会組織、人権団体は人権侵害や独裁政権時代に作られた憲法からの脱却を求める首都中心部では大規模なデモを行なった。毎年この日に

共同墓地に赴き、アジェンデの墓や独裁政権によって犠牲になった人々を追悼するためにパティオ29に集まることが慣わしとなっている。途中公共交通機関の停留所の破壊や放火が行われるなど、暴徒化するメンバーも出た。暴力行為を行う人間や一部のデモ隊と、チリ警察の特殊部隊との間では衝突も発生した。墓地付近に配備された特殊部隊は放水車、ガスランチャーを使用した。なおこの衝突で、少なくとも6人が逮捕されている。

ピノチェトに同調する右翼グループは軍事学校に横断幕やスローガンを掲げて集結した。

 

なお、米国の支援を受け軍事クーデターを起こしたピノチェトはチリが1990年に民主化を開始したにもかかわらず、1998年まで軍の最高司令官であり続けた。ピノチェトの政権下で起きた人道犯罪に加え、金融犯罪にも関与するも、罪は裁かれることなく、彼自身は2006年に死去している。

 

アジェンデ、ピノチェト、さらに民主主義を歪めたクーデターに関しては色々な視聴覚資料が残っている。個人的にはパトリシオ・グスマン(Patricio Guzmán Lozanes)の「チリの闘い(La batalla de Chile)」がお勧めだが、以下ドキュメンタリー映画「ピノチェト」のように軍事政権の肯定的な側面を描いた作品もある。

 

アジェンデについてはタグ「SALVADOR ALLENDE」で検索のこと。それにしても、文書の黒塗りはどこの世界にもあるのだと今一度確認ができた今回の報道だった。

 

参考資料:

1. Australian Spies Aided and Abetted CIA in Chile
2. 9.11テロ事件からイラク戦争へ
3. Documentos desclasificados revelan que Australia ayudó a la CIA en el golpe de Estado contra Salvador Allende en Chile
4. アメリカ同時多発テロから20年「まだ終わっていない」… NY倒壊跡地はいま
5. 平成13年(2001)アメリカ同時多発テロ
6. Espías australianos ayudaron a la CIA en intervención en Chile durante gobierno de Salvador Allende
7. Los espías australianos colaboraron con la CIA en Chile en la intervención de EE UU contra Salvador Allende

No Comments

Leave a Comment

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください