(Photo:Wasfi Akab/Flickr)
チリのシンガーソングライター、ビクトル・ハラ(Víctor Jara)を拷問し殺害した罪に問われているチリの元軍人で逃亡中だったペドロ・バリエントス(Pedro Barrientos)が米国、フロリダ州デルトナで逮捕された。バリエントスは10月5日に逮捕され、以降米国移民税関捜査局(US Immigration and Customs Enforcement Service)に拘留されている。
2016年にオーランドの連邦裁判所はビクトル・ハラに対する拷問と超法規的殺人でバリエントスを有罪判決を下し、彼とハラの死には強い関連性があることが判明したとし、2800万ドルの損害賠償金の支払いも命じていた。法廷ファイルによれば、ハラ殺害に関して虚偽の証言を繰り返す一方、バリエントスは米国市民権を不法に取得していた。国土安全保障捜査局(Oficina de Investigaciones de Seguridad Nacional:HSI)タンパの担当特別捜査官ジョン・コンドン(John Condon)は「バリエントスの逮捕は、州、地方、連邦のパートナーとの長年にわたるサービスによって築かれた強力な法執行パートナーシップの証」と述べ、またハラ殺害に関与した容疑で「チリで起訴されるだろう」と付け加えた。
https://twitter.com/baradit/status/1711880946541121640
1978年、ホアン・ハラ(Joan Jara)は、その数十年後に実を結ぶことになる司法の猛攻撃を開始した。その年、刑事弁護士ルイス・オルティス・キロガ(Luis Ortiz Quiroga)の支援のもと、ビクトル・ハラの未亡人は、クーデターの5日後にチリ・スタジアムでビクトル・ハラが殺害されたとして、サンティアゴの第5刑事裁判所に訴訟を起こした。ハラ殺害に関与したものたちに行った一連の措置の最初の訴訟は失敗に終わったものの彼女は真実を明らかにするため諦めることはしなかった。軍事政権が終わると、ホアン・ハラはネルソン・カウコト(Nelson Caucoto)弁護士の事務所に行き、再び攻勢を開始した。こうして1999年8月、彼らはアウグスト・ピノチェト(Augusto Pinochet)を提訴し、調査を開始した。しかしミゲル・バスケス(Miguel Vázquez)が、ハラの犯行に関与した軍人やリトレ・キロガ・カルバハル(Littré Quiroga Carvajal)元刑務所長の犯行に判決を下したのは2018年7月のことだった。2023年8月28日、最高裁判所第2法廷は最終判決でラウル・ホフレ・ゴンサレス(Raúl Jofré González)、エドウィン・ディムテル・ビアンキ(Edwin Dimter Bianchi)、ネルソン・ハセ・マゼイ(Nelson Haase Mazzei)、エルネスト・ベスケ・ウルフ(Ernesto Bethke Wulf)、フアン・ハラ・キンタナ(Juan Jara Quintana)、エルナン・チャコン・ソト(Hernán Chacón Soto)に対し、両被害者の殺人と加重誘拐の実行犯として懲役25年を言い渡した(詳細はこちら)。しかしペドロ・バリエントスは米国で逃げ延びていた。バリエントスが国土安全保障捜査局によって捕らえられたのは、数年前に取得した米国市民権を剥奪するという7月の裁判所の決定を受けたものである。「バリエントスの帰化を取り消し、被告に発行された帰化証明書(…)を、帰化当初の日付である2010年12月17日付で取り消す」と、ロイ・ダルトン(Roy Dalton)判事は通告した。彼の逮捕は2012年12月にミゲル・バスケス判事が要請したもの。バリエントストハラ殺害の関係が明白であるものの、バリエントスは1990年以来米国に居住していたことによる。
ホアン・ハラとその娘たちの弁護団を率いるフランシスコ・ブスト(Francisco Bustos)弁護士は、「人道に対する罪の加害者が正義に直面できるようにすることが重要だ。国家には、不処罰を防ぐために、捜査し、起訴し、効果的な罰則をもって処罰する義務がある。従って、正義から逃れようとした人物が、まもなく正義と向き合えるようになるという事実は、この事件に取り組んできた私たち全員にとって、間違いなく喜ばしいことだ」とバリエントスの逮捕を受け述べている。
米国で収集された情報によると、バリエントスは1990年7月に観光ビザで入国し、7年後に米国市民と結婚した。そのため、永住権と市民権の取得手続きを開始した。しかし永住権取得に際して彼はチリ独裁政権時代の自ら行動の詳細を隠し、嘘をつき、情報を改ざんした。法廷で明らかにされたように、彼はビクトル・ハラ殺害やその他の犯罪との関連を否定した。そのために彼は米国における利益を失い、そして拘留されることになった。
実行犯とされるバリエントスの名前はこの事件で起訴され、1973年9月16日にシンガーソングライターを「至近距離」で射殺したと告発した元徴用兵ホセ・アドルフォ・パレ・マルケス(José Adolfo Paredes Márquez)によって世間に知られるようになった。その後の2012年、番組『エン・ラ・ミラ(En la mira)』で放送された「誰がビクトルハラを殺したのか(¿Quién mató a Víctor Jara?)」でバリエントスは「私はチリ・スタジアムに行ったこともないし、チリ・スタジアムのことも知らないし、ハラという歌手のことも知らなかった(……)私は誰も殺していないから、裁きを受ける必要はない」と証言し、元徴用工の主張を否定した。その一方テハ・ベルデス(Tejas Verdes)連隊で働いていたことは認めていた。『ラジオ・パウタ(Radio Pauta)』でアルベルト・ファン・クラベレン(Alberto van Klaveren)外務大臣は「この問題については、かなり以前からアメリカ政府と連絡を取り合っていた。しかし基本的に公言しなかったのは、バリエントスが逃亡中だったからだ。我々は彼が逃亡者であることを知っていたし、米国当局が彼を探していることも知っていた。米国当局は彼が逃亡を続けたり、米国当局が彼を探していることを知られないようにするため、事態を極秘にするよう私たちに要請してきた」と説明した。
2012年12月26日、ミゲル・バスケスは、ペドロ・バリエントスを、ビクトル・ハラに対する加重殺人罪の加害者として裁判にかけた。同じ理由で、2013年1月、最高裁判所は、米国に彼の身柄引き渡しを求めることが「適切」であると宣言した。「要請された人物が裁判にかけられた最終判決や司法検察官の報告書(…)からわかるように、被告人の引き渡しを要請するための要件はすべて満たされており、引き渡しの要請を認め、その手続きを続行することが適切である」と、最高裁判所第2法廷は当時述べていた。当時、バスケスはすでに一連の情報を持っていた。その中にはチリ・スタジアムで行われた行為への参加を認めたホセ・パレ・マルケス元徴用工の証言もあった。「最高指揮官を探さなければならない。私はただの 『やるだけの男(Pelao)』だった」と、2009年に厳重警備刑務所に移送された際にマルケスは語っていた。
当時の中尉のボディーガードであったホセ・パレ・マルケスの証言によると、バリエントスは暴力的な男で、制服を着た若者に罰を与えていた。彼自身の言葉を借りれば「歌手をロシアンルーレットにかけ」、手錠をかけたまま彼を射殺した。ビクトル・ハラの身体には56の骨折と44の銃弾があり、キロガの身体には47の骨折と23の銃弾があった。
民主的に選ばれた初の大統領である社会主義者サルバドル・アジェンデ(Salvador Allende)政権をクーデターで倒した後、アウグスト・ピノチェト将軍率いる軍司令部は、反体制派や左翼とみなされる芸術家、活動家、政治家、知識人の誘拐、拷問、殺害を命じた。社会批判を含んだ歌詞で知られるビクトル・ハラは、共産党の過激派だった。彼は逮捕され、他の数百人の拘留者と共にサンティアゴの国立競技場に連行された。この悪名高い行為は、当時からクーデターから50年経った現在に至るまで、世界中の人権団体から疑問視されている。
ピノチェト独裁政権は、3,200人以上の死者と28,000人以上の行方不明者を出したと推定されている。とりわけビクトル・ハラの事件は、国際的な反感を呼び起こし、それ以来、音楽家、作家、詩人、映画製作者にインスピレーションを与えてきた。『平和の生存権(El derecho de vivir en paz)』や『アマンダ、君を忘れない(Te recuerdo, Amanda)』といったハラの歌は、彼の生きた時代と独裁政権に対する抵抗の大切な思い出となっている。
米国家当局は、捜査警察(Policía de Investigaciones:PDI)と連携し、被告人をチリに送り返すための手続きを開始した。PDIの国際協力部門責任者であるカタリナ・バリア(Catalina Barría)警部補の説明によると、現在、入国審査官の決定を待っているところであり、入国審査官は被告人の追放をどのように行うかを決定する。
参考資料:
1. Detienen en Estados Unidos a Pedro Barrientos por asesinato de Víctor Jara: Será enviado a Chile
2. Quién es Pedro Barrientos, el militar detenido en EE.UU por el homicidio de Víctor Jara
3. Los 33 años en EE.UU. del acusado de la muerte de Víctor Jara
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