チリ:ビクトル・ハラ殺害50周年を前にして元軍人7人、有罪判決となる

チリの最高裁判所は8月28日月曜日、1973年9月11日のアウグスト・ピノチェト(Augusto José Ramón Pinochet Ugarte)によるサルバドルアジェンデ(Salvador Allende)政権に対するクーデターが起きた。クーデター直後に起きた独裁政権の最も象徴的な犯罪のひとつであるハラの殺害はチリの司法制度がまだ終結させていない最も重要な事件のひとつであった。サルバドル・アジェンデ元社会主義大統領(1970~1973年)の人民統一政府の協力者であったハラの殺害は死者・行方不明者を含め3200人もの犠牲者を出した独裁政権の最も凶悪な人権犯罪のひとつとして知られている。

暴力的な変革を指導してきたのはアウグスト・ピノチェト将軍であり、その背後には米国CIAがいた。世界で初めて民主的な裁判のもと選ばれた大統領は、自らの利権を獲得し、要求を通すため、他国を利用し利用されながら暴力に訴え、自らの思惑と合致しない民主主義なるものを破壊した。その構造は今も変わらない。

9月11日を境に大きく転換した社会では最も簡単に市民が殺された。拉致、暴力はて以上的に行われ、軍に連れ去られた市民で未だ見つからない者も多くいる。犯罪に加担したものの中には、自らに何も罪がないかの如く語り、振る舞うものもいる。そしてこの時代見せ物かの如く聴衆の前で殺された1人に国民的歌手ビクトルハラ(Víctor Jara)がいた。ハラはアジェンデ大統領(1970-1973)が倒れた翌日、逮捕され、アジェンデ政権下で国家刑務所の所長だったリットレ・キロガ(Littré Quiroga)とともにスタジアムでリンチと銃弾によって殺された。ハラとキロガは、軍によって投獄され、スタジアム(現在はビクトル・ハラ・スタジアムと呼ばれている)に連行された5,000人以上のアジェンデ支持者のうちの2人だった。

今年は彼らの死の50周年にあたるが、その日を前にチリ最高裁は彼の死に関わった7人の元軍人に有罪判決を下した。司法の証言によれば、捕虜たちは軍人たちに特に残酷な仕打ちを与えられ、少なくとも3日間拷問を加えられた。シンガーソングライターの身体には56箇所の骨折と44発の銃弾、キロガの身体には47箇所の骨折と23発の銃弾があった。2人の遺体は、1973年9月16日、メトロポリタン墓地近くの鉄道線路近くの空き地に一緒に投げ込まれた。

全会一致の判決によると、元兵士のラウル・ホフレ・ゴンサレス(Raúl Jofré González)、エドウィン・ディムタ・ビアンキ(Edwin Dimter Bianchi)、ネルソン・ハセ・マゼイ(Nelson Haase Mazzei)、エルネスト・ベスケ・ウルフ、フアン・ハラ・キンタナ(Juan Jara Quintana)、エルナン・チャコン・ソト(Ernesto Bethke Wulf)は、殺人事件の加害者として懲役15年と1日を言い渡された。さらに、加重誘拐の実行犯として10年と1日の実刑判決が下されている。同時に、元警官ロランド・メロ・シルバ(Rolando Melo Silva)には、殺人と誘拐の共犯として、それぞれ懲役5年と1日、さらに懲役3年と1日が言い渡された。

判決によるとスタジアムでは、「ある種の公的な意味合いを持つ囚人は、軍人によって識別され、他の囚人から分離され特別な拘留が割り当てられた後「拘束中、肉体的・言語的な攻撃による絶え間ない暴力的なエピソードに苦しんだ」。

 

有罪判決を受けた73歳から85歳の男たちは自由に裁判に応じ、刑務所に連行されなければならない。もう一人の被告人であるペドロ・バリエントスは、米国からの身柄引き渡しを求められている。民事裁判で、フロリダの連邦裁判所は、2016年6月のハラ殺害の責任を彼にあると宣告し、遺族に2800万ドルの賠償金を支払うよう命じた。

判決文はまた、「1973年9月13日から15日にかけて、被拘禁者は事前の司法および/または行政手続きなしにチリ・スタジアム内で尋問され、そのうちのいくつかは当時の第二軍事検察庁の職員によって行われた、 特に、ビクトル・リディオ・ハラ・マルティネスとリトレ・アブラハム・キロガ・カルバハルは、これらの行為について、また提起されたとされる容疑について、あるいはいかなる手続きの形成について、いかなる記録も残されることなく尋問された」。

判決によるとビクトル・ハラの場合「攻撃の主な理由は彼の芸術的、文化的、政治的活動であり、それは最近打倒された政府と密接に結びついていた」と述べている。さらに、「肉体的拷問を受け、最もひどい打撃を顔と手に受けた。被害者は2人とも、蹴り、拳による打撃、銃の尻による打撃を受けた」。『El derecho de vivir en paz』や『Te recuerdo Amanda』などの曲を残したビクトル・ハラは、殺害されたとき40歳だった。1960年代から1970年代初頭まで展開された音楽的・社会的運動であるヌエバ・カンシオン・チレーナの象徴とみなされている。ホアン・ハラ(Joan Jara)と結婚し、アマンダ(Amanda)とマヌエラ(Manuela)という2人の娘の父親だった。

一方、キロガは1969年に軍事蜂起未遂事件を起こした人物ロベルト・ヴィアウ(Roberto Viaux)陸軍大将が受けたとされる監禁と虐待の責任者として告発され、「彼のそばを通りかかった者たちが彼に与えた罰を悪化させ、徴兵たち自身がその罰に参加するようさえ促した」。リトレ・キロガが殺されたのは33歳の時だった。事務所で逮捕された日、彼は妻のシルビア、母親、そして3人の幼い子どもたちへ向けて3通の手紙を書いた。「子どもたち:行儀よくして、食べ物を全部食べなさい。一生懸命勉強して、お母さんの手伝いをしてね。お父さんにはもう会えないけれど。テレビはあまり見ないで、良い子できちんとしててね。バイバイ、パパのことも忘れないでね。幸あれ、リトレ・キロガ C」。

 

ビクトル・ハラとリットレ・キロガの裁判は、ピノチェト独裁政権下で行われた人権侵害事件に関する長期間にわたる調査の結果である。ビクトル・ハラの場合、最初の訴状は1978年、彼の未亡人によってサンティアゴ第5刑事裁判所に提出された。当時、刑事弁護士ルイス・オルティス・キロガ(Luis Ortiz Quiroga)によって提訴されたが、20年前にリトレ・キロガの遺族の代理人でもある人権弁護士ネルソン・カウコト(Nelson Caucoto)が本件を引き取った。本件を知っている犯罪者の多くが国外に脱出している。そのためハラの死に関する尋問のために数十通の召喚状が送られた。元刑務所長の事件でもよく似た状況が発生し、1987年に最初の告発がなされた。どちらの事件もチリの司法制度では何年も棚上げされていた。しかし1998年、スペイン人判事バルタサル・ガルソン(Baltasar Garzón)の命令でピノチェトがロンドンで逮捕された後、再び捜査は動き出し、独裁者に対する新たな訴訟提起につながった。重要な出来事は、1997年にエドゥアルド・フレイ・ルイス=タグル(Eduardo Frei Ruiz-Tagle)政権(1994~2000年)が司法改革を推進し、最高裁判所を刷新したことである。

フアン・カルロス・ウルティア(Juan Carlos Urrutia)とミゲル・バスケス(Miguel Vásquez)という2人の判事による調査で元軍人たちは告発された。2021年、有罪判決はサンティアゴ控訴裁判所によって格上げされ、現在は最高裁によって支持されている。

高裁は全会一致の判決で、「(中略)概略の事実は、特定の場所と時間に発生したものであり、証拠手段によって法的に証明されていることから、現実のものである」と述べた。

8月28日午後、判決を知った弁護士のネルソン・カウコトは最高裁は「チリ社会で非常に重要だった2人を対象とする悪名高い犯罪に判決を下した。一人は音楽と文化の象徴であり、もう一人は模範的な公務員であった」。そして、「2人とも、卑怯なやり方で、飽きるほど拷問され、何十発もの銃弾を浴びせられ、死体はサンティアゴの夜明けの無名の大通りに遺棄された」とEL PAÍSに語った。

カウコトは、7人の元軍人に全会一致で判決を下した最高裁判所刑事法廷の裁判官、ハロルド・ブリト(Haroldo Brito)大臣、ホルヘ・ダム(Jorge Dahm)大臣、エリアナ・ケサダ(Eliana Quezada)大臣、カロリナ・コッポ(Carolina Coppo)弁護士、レオノル・エチェベリ(Leonor Etcheberry)弁護士を強調し、「司法制度は、国内外を問わず、法律を絶対的に遵守してその職務を果たし、この瞬間を長年待ち望んでいた犠牲者の家族に安らぎをもたらしたと語った。

 

ビクトル・ハラについてはこちらも参照のこと。

参考資料:

1. Condenados por el asesinato de Víctor Jara siete exmilitares chilenos
2. Chile: condenan a exmilitares por asesinato de Víctor Jara

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