アルゼンチン:W杯優勝への道を切り開いたメノッティ監督に別れを告げる

(Photo:EL GRÁFICO)

アルゼンチン初のワールドチャンピオン監督セサル・ルイス・メノッティ(Cesar Luis Menotti)が、2024年5月5日に行われていたアルゼンチン選手権最終日に亡くなった。85歳だった。エストゥディアンテス・デ・ラ・プラタ・イ・ベレス(Estudiantes de La Plata y Vélez)とサンティアゴ・デル・エステロ(Santiago del Estero)が優勝カップを目指し戦っていた最中でのことだった。

メノッティはアルゼンチン代表チームの近代史の鍵を握る存在だった。1978年のワールドカップで優勝したロサリオ出身の監督は、その後、カルロス・ビラルド(Carlos Bilardo)とサッカーに対する考え方の違いから永遠の論争状態にある。ボカ・ジュニアーズ(Boca Juniors)、リーベル(River)、インデペンディエンテ(Independiente)は茨の道だったが、彼のアルゼンチンサッカー界における功績は大きく、現在の輝きへの種はすでに蒔かれていた。

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2019年に代表監督に就任したメノッティの影響力は、少なくともベンチにいた彼を知らない新しい世代にとっては、過去の人間となっていたかもしれない。1974年から1982年にかけて、それまでアルゼンチンサッカー協会(Asociación del Fútbol Argentino:AFA)の無関心によってさえ疎外されていたアルゼンチン代表のルールを変えたのもメノッティだった。リオネル・スカローニ(Lionel Scaloni)とリオネル・メッシ(Lionel Messi)は日曜日、メノッティを「参考人」「巨匠」と評した。

メノッティは、1960年代にセントラル(Central)、ボカ、ラシン(Racing)で才能ある、そしてそれほど苦労していないMFとして活躍した後、1973年のチャンピオンチーム、ウラカン(Huracán)の若き監督として人気を博した。1971年から就任したウラカンではアルフィオ・ルベン・バシーレ(Alfio Rubén Basile)、ミゲル・アンヘル・ブリンディシ(Miguel Ángel Brindisi)や、アルゼンチンワールドカップ代表のレネ・オウセマン・ハウスマン(René Orlando Houseman)らを率いてメトロポリタン・リーグを制覇した。

 

1974年のワールドカップでアルゼンチンが敗退した数週間後「フラコ(Flaco)」は、リーベルやボカに選手を拒否されても、代表チームを優先するという条件付きで代表監督に選ばれた。当時代表チームは1970年メキシコ大会の欠場など、代表監督に関して次々と挫折を味わっていた。

メノッティはAFAの支持を勝ち取り、近代的な代表チームの基礎を築いた。共産党に所属していたメノッティは、1976年3月24日の軍事クーデターの後、解任されるのではないかと噂されていた。むしろ命の危険すらあったと言えるが彼は国内にとどまり、代表チームの指揮を執り続けることができた。この時代は変化が激しかった。1974年に死去したフアン・ペロン(Juan Domingo Perón)大統領の後を継いだ妻のイサベル・マルティネス・デ・ペロン(Isabel Martínez de Perón)の失政、それに対する抗議テロは国を揺るがした。軍事クーデターの後ホルヘ・ラファエル・ビデラ(Jorge Rafael Videla Redondo)将軍が実権を掌ると、左翼家や一般市民は軍事政府によって次々と弾圧、処刑されていた。このような時代においてもメノッティは選手たちに対しめったに見られないほどの信念を貫いた。1978年アルゼンチン大会では前回大会(西ドイツ大会)の経験者マリオ・ケンペス(Mario Alberto Kempes、FW)を中心に、オズワルド・アルディレス(Osvaldo Cesar Ardiles、MF)、ダニエル・パサレラ(Daniel Passarella、DF)ら有能な若手選手を抜擢し初優勝に導いた。国際試合における蛮行で暴力的なイメージが定着した代表チームにクリーンで攻撃的なサッカーを浸透させた人物としても知られている。なお軍事政府がメノッティにそのポジションにつかせ続けたのは、ワールドカップの成功とその優勝が自らのアピールになると考えたことによる。政権はフットボールチームを全面的に支援するとともに、ライバルであるブラジルが3度の優勝を誇るのに対しアルゼンチンが一度も優勝をしたことがなかったことから、その優勝は絶対的なる命令であるともした。そのためのチーム強化を目的に選手の海外移籍も禁じている。なお決勝戦では決勝で3-1でオランダを下した。

1979年にはディエゴ・マラドーナ(Diego Maradona)を擁し、日本開催の世界ユース選手権(現U-20W杯)で優勝した。しかしすでに当確を見せていたマラドーナを1978年の大会メンバーに選出することはなかった。上述の通り軍事政権からの圧力が強かったこともあり、彼の将来を見据えた場合、同大会でその逸材を潰すわけにはいかなかったのが理由だ。メノッティはマラドーナに対し「まだ若く次のチャンスもある。だから次まで機会を待とう」と語ったとされている。しかしマラドーナは代表から外れたことを相当ショックに感じたという。

 

1982年のスペイン大会ではうまくいかなかった。2次リーグ敗退を機に、フリオ・グロンドーナ(Julio Grondona)によって監督を解任された。1982年から1983年にかけてスペインのバルセロナ(Barcelona)で優勝カップを手にしただけである。

メノッティはボカとインデペンディエンテに惚れ込み、素晴らしいチームを作り上げたが、タイトルを手にする前に予想外のタイミングで退団した。一方、リバーでは、アトレティコ・マドリード(Atlético de Madrid)やイタリアのサンプドリア(Sampdoria)でのヨーロッパでの経験のようにはいかず、期待をはるかに下回る結果となった。

メキシコ代表監督(1991~1992年)も務めたメノッティが残した遺産はすでに達成されていた。1978年のアルゼンチン大会、あるいは1986年のメキシコ大会がなければ、2022年のカタールでのアルゼンチン優勝はなかっただろう。アルゼンチンサッカー界がメノッティに多くの借りがあるとすれば、代表チームはそれ以上の借りがある。

メノッティは1992年には日本代表監督の候補にも挙がった。

 

 

参考資料:

1. Adiós a Menotti, el técnico que abrió el camino a los Mundiales ganados por Argentina

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