映画:「Coraje(母なる勇気)」を通じて今一度知るマリア・エレナ

アフロ・ペルーの混血女性であるマリア・エレナ・モヤノ(Maria Elena Moyano)は、1980年代から1990年代にかけてのペルー内戦時代において、最も重要な女性の一人とみなされている。テロと戦う著名な平和活動家、社会運動家、女性の権利擁護者として、そして暴力、貧困との闘いによって、彼女は地域社会の象徴となった。早期教育のための不就学プログラム(Programa no escolarizado de Educación Inicial:PRONOEI)を推進し、ビジャ・エル・サルバドル民衆女性連盟(Federación Popular de Mujeres de Villa El Salvador:FEPOMUVES)の会長を2度務め、1990年には副市長となり、1992年に33歳で暗殺されるまで活躍した。

1958年11月29日にリマ市バランコ地区で生まれたマリア・エレーナは「母なる勇気(Madre Coraje)」として親しまれた。彼女は幼い頃、6人の兄弟と母親エルモヘネス・モヤノ・レスカノ(Hermógenes Moyano Lescano)とともに、12歳の時、リマのバランコ地区からビジャ・エル・サルバドル自治区(Comunidad Urbana Autogestionada de Villa El Salvador:CUAVES)に移り住んだ。フアン・ベラスコ・アルバラド(Juan Velasco Alvarado)将軍による軍事独裁政権下のことであるが、当時の大統領は「計画的な移転」を命じており、何百もの家族がリマ南部に強制移住させられた。ビジャ・エル・サルバドル地区と呼ばれている場所への最初の移住は1971年に数週間にわたる抗議とペルー政府との交渉の末始まった。リマ市の南境界の一部を形成する砂地へ政府が居住許可を出したことによる。パンプローナ砂漠の大地に、住民たちは自分たちの手で居住区を築いたが、当時はまだ、水道や電気といった基本的なサービスもなく、砂だらけの広大な土地に過ぎなかった。しかしそこにはより良い未来を求め、ペルーの内陸部からの移民が集まっていた。移住当時すでにマリア・エレナたちは父親エウヘニア・デルガド・カブレラ(Eugenia Delgado Cabrera)と離別していた。

勉強するために、マリア・エレナは朝早くから公共交通機関を乗り継ぎ、ビジャ・エルサルバドルから北に数キロ離れたスルコにあるホルヘ・チャベス校に通っていた。妹と一緒に学校のバレーボールチームに選ばれた。インカ・ガルシラソ・デ・ラ・ベガ大学(Universidad Inca Garcilaso de la Vega)で社会学を学び、1973年から1975年にかけて、歌や演劇の活動や、講演や座談会を通して、若者が麻薬中毒や家族の誤解と闘う方法を広めることを目的とした青少年グループ「レノバシオン(Renovación)」の代表を務めた。2年間社会学を学んだが退学したマリアはその理由を、より実践を通じて学びたかったことによると述べている。リマでの生活は彼女に人種差別や社会的差別の存在を否応なしにも見せつけた。彼女の指導者としての資質は、あらゆる活動において発揮されたが、とりわけ、アドベンティストの慈善事業と福祉(Obra Filantrópica y Asistencia Social Adventista:OFASA)やその他の政府機関の策略から母親たちを守ることを目的とした母親クラブ「ミカエラ・バスティダ(Micaela Bastidas)」の設立において顕著であった。ミラフロレス地区での生活は夫グスタボ・ピネキ(Gustavo Pineki)との出会いをもたらし、1980年に結婚、2人の子供に恵まれた。グスタボと出会った少女時代を振り返りマリア・エレナは短い自伝の中で、最初の数週間は「子どもたちは石やレンガの上に座っていた。ある日、ボーイフレンドのグスタボが木を持ってきて、テーブルを作ってくれた。円形の長い木片で、子どもたちはすでに絵を描いたりする場所を得ていた。子どもたちはレンガや椅子、小さな木のテーブルの上に座っていた」と述べている。

 

マリア・エレナの人生やその政治観を教育との観点からも研究したルイス・マルティン・バルディビエソ・アリスタ(Luis Martín Valdiviezo Arista)の分析を見てみよう。

マリア・エレナは1983年、ビジャ・エルサルバドル民衆女性連盟(FEPOMUVES)の組織書記を務めた。その後、1985年から1988年にかけて、同連盟の会長を務めた。FEPOMUVESは、この市民権モデルの設計と実施において決定的な役割を果たした。マリア・エレナによれば「近年、女性たちは、政治に参加し実践することがいかに重要であるかを効果的に示した」。この連盟は当時リマで最大の女性運動だった。栄養、健康、人権、雇用、教育、民主的市民権などの問題を解決することにその活動を集中させた。その解決策は、コミュニティ自身の経験とアイデアに基づいて構築された。食堂は、公的な場だけでなく、私的な場においても、民主的な共存を教育する場となった。

女性たちは、食堂(何百、何千もの食堂)や牛乳ガラス委員会を通じて、飢餓を緩和するために自分たちで組織した。これらの食堂によって、女性たちは私的空間である自宅から、より公的で共同的な空間へと移動することができるようになった。彼女たちは、食糧や生存の問題、共同体や社会的な対立に対処するだけでなく、個人的な問題やジェンダーの問題にも対処している。例えば、女性がパートナーに殴られたり虐待されたりした場合などである。

 

FEPOMUVESのエステル・フローレス・パチェコ()は、2002年にペルーの真実和解委員会でマリア・エレナについて以下のように語っている。

私は、マリア・エレーナ・モヤノが80年代から90年代にかけて女性連盟の会長だった頃、一緒に働いていました。私はフェポムーブのソーシャルワーカーでした。マリア・エレーナ・モヤノは、朝早くから夜遅くまで懸命に働き、女性たちを組織化し、女性たちの意識の形とレベルを作り上げた女性だった。だからこそ、私たち女性の多くは、家庭を飛び出し、四方の壁から抜け出し、個人的な問題から集団的な問題へと向かい、自分たちには権利があり、生活条件を改善する可能性があることを理解することができたのだ

 

設立から20年後、ビジャ・エルサルバドルは30万人の住民、工業団地、活発な商業市場、小中学校、高等教育機関を擁するまでになった。ビジャ・エルサルバドルの急成長は、マリア・エレーナ・モヤノと地元の指導者世代が推進した参加型民主主義モデルに基づいている。マリア・エレナは「私たちが近年達成した発展は、国の支援に基づくものではなく、組織化された住民全体の参加に基づくものです」と述べている。それは、コミュニケーション、仕事、想像力、日常的なコミュニティ組織に基づいて市民が作り上げたものだった。地域的・国家的問題に立ち向かうための熟慮と集団行動のこのプロセス全体が、極端な排除の状況にある隣人たちの間に、批判的で変革的な市民意識の形成を促した。

彼女の政治生活は、マリアテギスタ統一党(Mariateguista)員として始まり、リマの公立学校を訪問し、4年間子供たちを元気づけ笑顔を届けた。二度目の妊娠の際も、政治指導者としての活動は終わらず、上述のミカエラ・バスティダの設立を指揮し、その功績でビジャ・エル・サルバドル女性人民連盟の組織副事務局長に選出された。彼女の政治参加は常に非営利組織(NGO)の状況を改善することを目的とし、炊き出し、母親クラブ、牛乳一杯プログラム、保健委員会、生産委員会、早期教育委員会を通じてこれを達成した。1992年末、ビジャ・エルサルバドル女性連盟は112の炊き出しを行い、1日3万人に食事を提供し、507の「牛乳ガラス委員会」を運営し、約6万人の子どもたちにサービスを提供していた」と、真実と国家和解委員会の資料に残っている。

 

ルイス・マルティン・バルディビエソ・アリスタはまた彼女の政治性やビジャ・エル・サルバドルでの実践を他の社会的リーダーと比較し以下のように語っている。

アロンソ・ガルバン(Alonso Galván)によれば、ビジャ・エル・サルバドルでは、「……政治的組織と参加の『集会文化』が発展し、共同作業のための近隣の協力が促進された」。この実践により、経済的、政治的、文化的に国家やペルー社会の支配的集団から疎外されていたビジャ・エル・サルバドルでは、共同集会が市民生活の中心となった。集会への参加は、水、電気、教育、食糧、健康、労働、交通などの基本的なニーズを満たすため、またコミュニティ内の連帯、正義、民主主義のネットワークを強化するために、考察を共有し、提案を発表し、検討し、合意やコミットメントを確立することを意味した。マリア・エレナはまた、何十人もの民衆指導者たちとともに、主に隣人同士の日常的な共存の中で実践される、積極的で異文化的な市民教育法を開発した。この民主主義の構築は、住民のほとんどが出身地であるアンデスの農民コミュニティ、労働者組合、大学生組織、左翼政党の政治的伝統を統合したものであった。彼らが知ってか知らずか、これらの若い民衆指導者たちは、パウロ・フレイレ(Paulo Freire)の教育学的提案に似た、地域の現実、つまり文化、民衆の民衆的知識に基づく知識構築のプロセスを奨励するような教育学的提案を実践した。このプロセスにおいて、ヴィラ・エル・サルバドルの市民は、コミュニティのメンバー間のコンセンサスに基づいて、ボトムアップの地区権力構造を構築した。

このコンセンサスは、総会で提示された反省、意見、提案に基づいている。そこでは、結論に達するために、それらが検討され、議論された。これは、哲学者ハンナ・アレント(Hannah Arendt)がコンセンサスの間主観的構築のための行動」と定義した民主的権力の実践であった。この点で、マリア・エレナは、「ビジャ・エルサルバドルは、多くの人々、多くのリーダーにとって、学校であり、形成の場であった」と断言し、「……小さな方法で、異なる社会の建設が行われた」地区であった。この点に関して、ジョー・マリエ・バート(Jo-Marie Burt)は、マリア・エレナ・モヤノが「……民衆参加と地方の民主的統治という解放的なプロジェクトを固く信じていた」と述べている。それは、ペルー資本主義国家の中央集権的でエリート主義的なパターンに立ち向かうプロジェクトだった。

 

マリア・エレナ・モヤノの殺害

マリア・エレナがビジャ・サルバドルの市長としても更なるリーダーシップを発揮し出した90年代初頭、センデロ・ルミノソ(Sendero Luminoso)は悪名高い存在として有名になるのみならず、人気女性指導者の暗殺キャンペーンを始めた。アヤクチョから始まった社会主義獲得のためのはずの運動は、市民を巻き込み、暴力を加速し、テロ集団とも言えるものに変わっていた。センデロ・ルミノソはマリア・エレナは腐敗しているとの噂を流し、圧政国家に協力していると非難し、彼女の命を脅かした。さらに組合をも攻撃の対象とした。一方のマリア・エレナはセンデロ・ルミノソの弾圧に屈することはないとし、彼らは暴力、脅迫、恐怖に立ち向かうことを決意した。1992年2月14日、センデロ・ルミノソは武装ストライキを布告した。しかし、マリア・エレナはこうしたすべての態度に抵抗し、何人かの女性リーダーとともにストライキに反対し「平和のための行進」を組織した。この行進自体はテロリストの報復を恐れる市民から歓迎されなかったものの、彼女の信念に忠実な仲間はテロリスト集団による「家の外にいる者は誰でも殺す」という脅しへの対抗を示し、街頭に出た。こうしてセンデロ・ルミノソが呼びかけた武装ストライキは失敗に終わるとともに、センデリスタは報復を求めた。極左武装運動であるセンデロ・ルミノソは、マリア・エレナ・モヤノと彼女のマイノリティを支持する言説に異議を感じていた。彼女は闘争の形態としての暴力やテロを信じていなかった。彼女の考えは民主主義を徐々に変化させ、人々が自分たちには権利があり、それを行使すべきであると理解できるようにすることに向けられていた。

1992年2月15日、マリア・エレナは地区で開かれたバソ・デ・レチェ・プログラム主催のポラーダに出席していた。午後6時半過ぎ、15人から成るセンデロ・ルミノソのコマンド・グループがその会場に到着、2人の幼い子ども(10歳と8歳)たちの前でマリア・エレナの胸と頭を撃ち抜いた。その後、彼らは彼女の遺体を引きずって路上で5キロの爆薬とともにダイナマイトで爆破した。同コマンドは直ちに、彼女の暗殺を正当化するパンフレットを配布した。しかしマリア・エレナを煙たがっていたのはセンデロ・ルミノソやその支持者みならず、新自由主義者もまた、活動的で批判的、自律的で変革的な彼女を彼らの政治的目的を達成するための巨大な障害とみなしていた。その後彼女の夫と子どもたちはスペインに政治亡命を余儀なくされた。

バルディビエソ・アリスタによるとこの時代センデロ・ルミノソは1991年8月31日にフアナ・ロペス(Juana López)、1991年12月6日にモラリザ・エスペハ・マルケス(Moraliza Espeja Márquez )、1991年12月20日にはエマ・ヒラリオ(Emma Hilario )を殺害している。マリア・エレナ・モヤノの集団埋葬は、地域社会のアイデンティティの表明であると同時に、暴力に対する拒否の表明でもあった。

センデロ・ルミノソの存在やそれが生み出し続けた矛盾を批判するのは容易いことだ。しかし同時に我々はセンデロ・ルミノソが生まれた背景を理解する必要があり、なぜマリア・エレナたちが闘わずして社会的正義を得られないと考えたのかを知る必要がある。マリア・エレナもセンデロ・ルミノソの矛盾とともに当局の暴力を「私たちは汚い戦争(の時代)を生きている。民主主義の名の下に、女性はレイプされ、民衆指導者は逮捕され、村全体が荒らされている。民衆のために戦っていると主張する一方は、民衆の指導者を殺害し、権威主義的でトップダウン的な恐怖の立場をとりながら、力ずくで自分たちの考えを押し付けている」と指摘している。

 

マリア・エレナ・モヤノへの賛辞

社会的大義と女性の権利のためのマリア・エレナの活動は、地域社会から尊敬と称賛を集め、自分の権利を主張するために当局に恐れずに立ち向かったことで認められた。

1985年、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世は、ビジャ・エル・サルバドルを優れた自主管理の例として訪問。翌年には、ミシェル・アスクエタとマリア・エレナ・モヤノによる地区改善の功績が国際的に認められ、アストゥリアス皇太子賞を受賞した。

1989年、ビジャ・エルサルバドルの副市長にイスキエルダ・ウニダ(IU)党から国民議会議員に選出された。マリア・エレナは中央集権的でエリート主義的な国家形態から、地方分権的で根本的に民主的な国家への構造転換を求め、その布石がビジャ・エルサルバドルでの実践と言える。また任期中、また1991年のいわゆるフジショックに対応するため、マリア・エレナは抗議のため街頭に立ち、空の鍋の行進を先導した。暴力と女性の解放に反対する彼女の行動は、彼女に強大な敵を作ったが、同時に多くの名声と賞賛をももたらした。マスコミは彼女を「勇気の母」と呼ぶようになり、1990年にはパーソナリティ・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。

2012年2月6日、モヤノが暗殺された2月15日をテロ反対デーとするよう提案された。

2017年6月13日(暗殺から25年後)、文化省から文化功労者として表彰された。

2022年2月15日、30周年を記念し、彼女が愛したビジャ・エル・サルバドルで記念式典が開催された。

Nach – Disparos de Silencio” feat. Wöyza (Music Video) from Chocolatex on Vimeo.

センデロ・ルミノソに関するその他の記事はこちらから。

 

参考文献:

1. Aniversario de Maria Elena Moyano: ¿quién fue y cuál es su legado?
2. María Elena Moyano: El legado de una mujer luchadora en la sociedad peruana
3. María Elena Moyano: construyendo ciudadanía y paz desde el Perú excluido
4. El legado de la “madre coraje” que Sendero Luminoso nunca logró matar en Perú
5. Perú: María Elena Moyano vive

 

作品情報:

名前:  Coraje(邦題:母なる勇気)
監督:  Alberto Durant
脚本:     Alberto Durant
制作国: Perú
製作会社:Agua Dulce Films etc.
時間:   112 minutes
ジャンル: Drama

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