米国:タルサ大虐殺の生存者、ヒューズ・ヴァン・エリス死去

(Photo:Hypersite/Wikipedia)

ヒューズ・ヴァン・エリス(Hughes Van Ellis)が10月9日月曜日、デンバーで死去した。享年102歳だった。エリスは、 重武装した白人暴徒がオクラホマ州タルサで数百人の黒人住民を殺害した1921年の大虐殺の生存者3人のうちの1人であった。退役軍人病院での死は、娘のミュリエル・エリス・ワトソン(Muriel Ellis Watson)によって確認された。ワトソンは電話インタビューで、父親は最近脳に転移したガンの治療を受けていたと語った。

彼がいなくなった今、虐殺事件を知るもの108歳のレッシ・ベニングフィールド・ランドル(Lessie Benningfield Randle)と109歳でエリスの姉であるヴィオラ・フォド・フレッチャ(Viola Ford Fletcher)だけとなった。当時繁栄した町として有名だったタルサの住民の大部分がアフリカ系アメリカ人で、白人たちはグリーンウッド地区の大部分を焼き払った。米国史上最悪の人種差別テロ攻撃のひとつとして知られている。

 

事件は1921年5月31日、19歳の黒人男性ディック・ロランド(Dick Rowland)が、タルサのダウンタウンのエレベーターで17歳の白人女性サラ・ペイジ(Sarah Page)に性的暴行を加えたとして告発されたことをきっかけとする。しかし本当は何が起きたのかについては、さまざまな証言がある。一般的な説では、黒人の若い靴磨き職人がつまずき、転倒を免れようとエレベーター・オペレーターを勤めていた女性の腕をつかんだとされている。委員会の報告書によれば、彼女は悲鳴を上げ、彼は逃げ出した。女性の悲鳴を聞いた白人の店員が「黒人に暴行されたに違いない」と警察に通報した。当時の米国では南部を中心に人種隔離政策が取られていました。オクラホマ州も例外ではなかった。また黒人男性を標的としたリンチや暴力殺害事件も多発していた。奴隷制の廃止後、黒人の政治的・経済的・社会的地位の向上を脅威とみた白人が、暴力を武器に白人至上主義的社会構造の維持を目指したのだ。そこで使われたのがタルサで起きたような黒人男性を白人女性への性的脅威とまるという言説だった。本当に何があったのかについてはわかっていない。しかしペイジによるロランドに対する告訴は最終的に取り下げられた。

6月1日、ローランドは逮捕され、タルサ郡裁判所に収監された。その日の午後には、『タルサ・トリビューン(Tulsa Tribune)』紙が「エレベーターで少女を襲った黒人を逮捕」という見出しで事件をセンセーショナルに報じた。その結果日没までに数百人の白人住民が留置所のある裁判所前に集まってきました。夜になるとその数は約2千人にふくれあがっていた。ロランドが収監された後、リンチされることを恐れた黒人たちもまた、ロランドの安全を確保を目的に武装し郡裁判所の前に集まった。武装したタルサン人の黒人グループ(その多くは第一次世界大戦の退役軍人)が二度、ロランドの警護を申し出たが、保安官によって追い返された。二度目に黒人たちが立ち去ろうとしたとき、白人が退役軍人の武装を解こうとし、乱闘の中で黒人の銃が暴発した。この日の衝突は、後のグリーンウッドの武力破壊の始まりとなった。

白人はタルサのダウンタウンに繰り出し、黒人を見つけては射殺した。そしてグリーンウッドに火をつけた。この町の発展は黒人起業家によるもので、レストラン、ホテル、劇場、その他のビジネスを黒人たちは経営していた。発展していたブラック・ウォール・ストリートとして知られる繁華街はこうして根絶やしにした。商店は略奪され、白人たちによって300人もの黒人が殺され、数百人の負傷者が出て、1,200軒以上の家屋が破壊され、8,000人から10,000人がが家を失った。最終的には6,000人が収容所に収容されている。当時の目撃談によると、街の上空を旋回する飛行機からテレビン油や灯油を含む爆弾が落とされたり、地上から建物に放火されたりもした。タルサの空中攻撃は、歴史家がアメリカの都市で初めてと呼ぶものであった。暴徒の多くは警察など市当局から武器を提供されていた。

 

この事件については決着がついていない。

2020年、エリス、フレッチャ、ランドルは、大虐殺の他の犠牲者の子孫とともに、彼らが被った損害の賠償を求める訴訟を起こした。訴訟にはタルサ市、タルサ郡保安官事務所、オクラホマ州兵、同市商工会議所など7つの被告が名を連ねた。判事は2022年5月、この訴訟の一部を続行する判決を下した。2023年7月に棄却されるも、州高裁は8月、控訴を審理することに同意している。

原告側弁護士のダマリオ・ソロモン=シモンズ(Damario Solomon-Simmons)は電話インタビューで「我々は時間との戦いの中にいる。「タルサ市もタルサ郡の司法制度も、法廷に立つ日を得るためだけに息を殺して闘い続けている残された生存者のために、ゴールを動かし続けることを許してはならない」と語っていた。ヒューズ・ヴァン・エリスがなくなってしまったように、原告たちの年齢を考慮すれば、緊急性を高く問題が解決されるべきである。

 

ヒュズ・ヴァン・エリスは1921年1月11日、オクラホマ州ホールデンヴィルで生まれた。彼の両親は6人の子供を連れて、家と財産を残してタルサから逃亡した。2021年5月、下院司法小委員会でエリスは「私たちには何も残されていない。私たちは自分の国で難民になったのだ」と語っていた。ワトソンによると彼は徴兵され、第二次世界大戦では黒人だけの戦闘部隊に所属していた。彼と妻のメブル・V. エリス(Mable V. Ellis)は1942年に結婚し、最終的にオクラホマ・シティに定住した。エリスは小作人として、また現在のティンカー空軍基地で整備士として、そして清掃員、庭師、ガソリンスタンドの店員としても働いていたと、エリスの娘は父を思い出しながら語った。彼と妻は7人の子供をもうけ、デンバーに定住した。

タルサ人種大虐殺の後、当局はこの事件を市の歴史的記録から抹消しようとしていた。そのため犠牲者は無名の墓に埋葬される必要があった。警察の記録から本件は消え、この事件に関する新聞記事は、マイクロフィルムに移される前に削除された。オクラホマ州の学校では、2002年までこの事件について生徒に教えるよう指導されてこなかった。

エリスと他の生存者たちは、100歳を過ぎても虐殺の記憶を持ち続け、賠償と正義を求めた。「タルサ人種大虐殺は、私たちにとって歴史書の脚注ではない」とエリスは2021年の下院小委員会で語った。「グリーンウッドが何であったのか、そして何があったのか」。「私たちはスクリーン上の白黒写真ではない」。「私たちは生身の人間であり、あの時、私はそこにいた。そして私はまだここにいる」そうエリサは語っていた。

Washington Area Spark(Flickr)

 

1921年5月、オクラホマ州タルサのグリーンウッド地区はおよそ1万人の住民にとって商業と家族生活の盛んなコミュニティだった。グリーンウッドは有望で活気に満ちていた。アメリカのブラック・ウォール街として知られるようになった町が24時間以内に消し去られた。暴力を駆り立てた要因のひとつは、グリーンウッドの各ブロックに見られる黒人の繁栄に対する恨みだった。この大虐殺による経済的打撃は、2001年の州委員会の報告書によると財産損失請求額として180万ドル(現在のドル換算で2700万ドル)とされている。財産の破壊は、この大虐殺がもたらした経済的荒廃のほんの一部にすぎない。黒人の子供たちや孫たちの財産を形成し、保証することができたかもしれない世代的な富の、計り知れない永続的な損失ともなった。「もし私たちが家業を維持することを許されていたらどうだっただろう」と、60代前半のブレンダ・ネイルズ=アルフォード(Brenda Nails-Alford)は述べた。彼女の祖父とその兄弟が営んでいたグリーンウッド・アベニューの靴屋は破壊された。「もし彼らがその遺産を受け継ぐことを許されていたら、私たちは今どのような状態だったのだろう」。

1900年代初頭に広大な土地を購入したストラッドフォードとガーリーは、グリーンウッドの創設者の一人である。彼らはタルサの北側、線路の向こう側で建設を始め、白人居住区とは別に黒人居住区を形成した。グリーンウッドは、奴隷状態から60年も経っていない黒人市民に立体的な生活を提供する、国内でも数少ない場所のひとつだった。夜は、住民たちは好きな娯楽を選んだ。木曜日は “Maid’s Night Out”(メイドの夜の外出)で、近所の人たちが「おめかし」してグリーンウッドに集まったと、親戚に伝えられた生存者の証言は語っている。黒人家政婦の多くは、町中の白人住民の家を掃除する住み込みの労働者で、その日は休みだった。

南北戦争後、多くのアフリカ系アメリカ人が、新たな章への夢と、事業を所有することで得られる自由を携えてタルサに移住してきた。また、タルサの新しい石油階級で、メイド、ウェイター、運転手、靴磨き、コックとして働き、生計を立てていた人々もいた。グリーンウッドでは、住民は200種類以上の仕事に就いていた。1920年の国勢調査をタイムズ紙が分析したところによると、地域住民の約40パーセントは、医師、薬剤師、大工、美容師などの専門職や熟練職人であった。近隣住民の大半は賃貸であったが、多くの住民は家を所有していた。

人種隔離により、アフリカ系アメリカ人は白人が経営する店を贔屓にすることができず、グリーンウッドは黒人が経営するビジネスをコミュニティが支援することで繁栄した。「黒人は経済的な回り道に直面していた」と、作家で1921年タルサ人種虐殺100周年委員会の教育委員長を務めるハンニバル・B・ジョンソン(Hannibal B. Johnson)は言う。「タルサ経済の門をくぐろうとしても追い返され、結局は自分たちだけの孤立したコミュニティを作ることになった」。グリーンウッドへの襲撃は2日間続いた。1921年6月2日の朝は、四方八方に空虚と廃墟が広がっていた。煙が立ちこめ、地面には灰が降り積もった。灰が地面を覆っていた。レンガ造りの建物は爆撃でもぬけの殻と化した。そして間もなく、殺された人々の死体が積み上げられ、集団墓地や川に捨てられた。破壊行為や殺害で起訴された白人はおらず、暴力行為に加担したり座視したりして黒人市民を守らなかった市当局者もまた、誰も責任を問われることはなかった。

 
 

ジョー・バイデン(Joe Biden)大統領は2021年6月、タルサの虐殺100周年追悼集会に現職大統領として初めて参列し、「今日の米国でも、最も致命的な脅威は白人至上主義によるテロだ」と述べた。またこの土地で起きたこと、そして語られてこなかったことを想起し、「もうあまりに長いこと、この場所で起きたことは、暗闇に覆われ、沈黙の中で語られてきた。しかし、歴史が沈黙するからといって、その出来事が起きなかったというわけではない。そして暗闇は多くのものを隠すことができるが、何も消さない。どれだけ大勢が地下に埋めて隠蔽しようとしても、あまりに凶悪であまりに恐ろしく、あまりに悲惨なため、決して隠しきれない不正もある。ここで起きたこともそのひとつだ」と追悼集会で述べた。

2021年5月31日、タルサ市長G.T.バイナム(G. T. Bynum)は「タルサ市役所は1921年のタルサ人種虐殺の夜、黒人のタルサ市民を殺害や放火から守らず、その後の数十年も黒人市民を差別から守らなかった」とソーシャルネットワークを通じ述べた。彼は「現在のタルサの公職者で1921年に生きていた者はいないものの、私たちも同じ市政を託された者として、市政の失敗については謝罪しなくてはならない。タルサの市長として私は、1921年にこの市の政府が地域住民を守らなかったことを謝罪するとともに、人種虐殺の後に被害者に誠実に対応しなかったことも謝罪する。被害に遭った人たちは、男性も女性も幼い子どもたちも、自分たちが住むこの町からもっとまともに扱われてしかるべきだったし、そういう扱いを受けなかったことを本当に申し訳なく思う」と謝罪した。

 

タルサの虐殺については正義が達成されていない。それどころかタルサ市議会は1960年代以降、都市再生と称した都市計画を実行。老朽化しているとみなされた住宅や店舗は新しい建物のために解体され、所有者の黒人たちは追い出されているのが実情だ。

 

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