コロンビア:26年前のイトゥアンゴ虐殺へのはじめての謝罪

11月30日(水)、グスタボ・ペトロ(Gustavo Petro)大統領はイトゥアンゴ(Ituango)のエル・アロ、ラ・グランハでの虐殺について、コロンビア国を代表して許しを請う演説をした。本イベントはメデジンにあるカサ・デ・ラ・メモリア美術館(Museo Casa de la Memoria)で行われた。両虐殺の司法手続きを行っているInterdisciplinary Group for Human Rights(GIDH)のディレクター、マリア・ヴィクトリア・ファジョン(María Victoria Fallon)、メデジン(Medellín)県知事ダニエル・キンテロ(Daniel Quintero)とアンティオキア(Antioquia)県知事アニバル・ガビリア(Aníbal Gaviria)も参加した。

 

「今日、コロンビア国家の代表として、すべての犠牲者の遺族と、同じ国家、殺人国家に殺されたために同伴できなくなった犠牲者に謝罪しなければならない。 1991年以来、憲法に書かれていない国家、すなわち不処罰国家が建設されている」と大統領は述べた。これは2006年7月1日に米州人権裁判所(Corte Interamericana de Derechos Humanos:Corte IDH)が下した判決に従ったもので、15年以上月日は経って、グスタボ・ペトロがコロンビア国を代表して、両虐殺の犠牲者の遺族にはじめて謝罪を表明したというもの。判決から16年後に行われた記念行事では、「これらの出来事は国家機関の支援を受けた準軍事組織によって行われた」というスローガンを掲げたプレートで除幕された。

Corte IDHは2006年国家へ謝罪とともに、移住させられた家族のこの村へ帰還を保証するための行動も国に命じている。それができない場合は、彼らが住むことになる別の場所で安定した条件を提供しなければならないとした。

ペトロによれば、虐殺が行われた場所の大部分では、領土を取り戻すことさえできていない。彼にとっては、「捨て去りたい、隠したい、国の歴史から消したい」という意図があったように思える。そのため、「虐殺のあった場所は、今日、美しい場所であるべきだ。隠すためではなく、見せるための場所であるべきだ」と述べている。

 

コロンビア武力紛争の枠組みにおいて、コロンビア連合自衛隊(Autodefensas Unidas de Colombia:AUC)の準軍事組織と治安部隊の共同行動で19人(うち子ども1人と女性3人)の農民の命が奪われた。これらの人々の多くは殺害される前に拷問を受け、家宅捜索を受け、町の中心部の大部分が破壊され、700人以上の地方住民が集団移住を余儀なくされた。事件は1996年7月11日でラ・グランはで起きた。準軍部隊Autodefensas Campesinas de Córdoba y Urabá(ACCU)のメンバーは4人、その数ヵ月後同メンバーは、エル・アロ村で15人の農民を拷問して殺害している。本件に関しては、非合法武装勢力リーダーのサルバトーレ・マンクソ(Salvatore Mancuso)が懲役40年の判決を受けている。

家族、被害者、さまざまな社会団体や人権団体の代表者たちが見守る中、命を落とした人々の名を一人ずつ読み上げるペトロは「国家の名において、被害者に許しを請う。コロンビア国家は、死者は誰の敵でもなく、謙虚で勤勉な人々であったこと、彼らは権力の思惑によって、そうであるがゆえに殺されたこと、ラ・グランハとエル・アロにおける彼らの死には、国家が関与し、殺人の共犯者であることを認めている。国家は、コロンビア社会全体の税金で支えられている公務員を通じて、殺人を命じ、国家内外の犯人を隠そうとした」と述べた。コロンビアには、「市民を殺害した国家」の真の理由を明らかにするために、さらに掘り下げ調査しなければならないことがあると言うのがペトロの考えだが、一方で「司法手続きや捜査、司法長官室と呼ばれる機関などには、そもそもコロンビア全土で市民が組織的に殺害された原因を突き止める政治的意志がなかったため、そうしてこなかった」と述べている。

 

大統領は、ラ・グランハとエル・アロで起こった虐殺は人道に対する罪であり、国内で起こった他の多くの事件とともに、ジェノサイドと呼ぶことができると指摘し、「コロンビアでは、最近ジェノサイドが起こった」と述べた。ペトロは、このような社会の構築は、コロンビア人を敵として対峙させることに基づいている、と付け加えた。

「私たちが今抱えている危険は、それが繰り返されることであり、コロンビア社会の永久的な非難として、私たちの人生や将来の世代の後に、おそらくコロンビアが、人類の存在する一つの社会として、永久的に自滅することを決定する状況を背負わなければならないということだ」と彼は言った。

 

国家の不作為や行動によって市民が殺害された事件の犠牲者を認識することの重要性を振り返るとともに、政治的な意志がなければ準軍事主義は起こらなかったとし、犠牲者の数が最も多い県としてアンティオキアに言及し、「絶滅の実験室(el laboratorio de exterminio)」が作られたと大統領は述べている。

また大統領は自らの意志のもとに、今回のことが単なる謝罪と許しを請うためのアクションとして終わることなく二度とこのような出来事が繰り返されないようにするために行動転換をすると述べた。悲しい事件を起こさないためには社会が和解に向けた心理転記転換をする必要があり、虐殺が行われた場所の生活の質を向上させることが使命であるとも述べている。

その上で、「和解の契機が課せられている」と述べた。そのような場所で、私の政府は美しい場所(そこに到着した人が振り返り、考え、二度と繰り返されないことを知ることができるような場所)を作らなければならないと命じた。芸術と美は、光と平和と相通じるものがあり、ヨーロッパで訪れたホロコースト記念館と比較しながら、「闇とは無縁の場所だ」とペトロは続けた。

 

大統領によるとイトゥアンゴの事件に限らず、こうした事件は司法がその原因や加害者・黒幕の解明に消極的であり、その結果不処罰のままであると批判している。

被害者たちは過去3回の政府(イバン・ドゥケ、フアン・マヌエル・サントス、アルバロ・ウリベ)から聞くことができなかった恩赦を受けたことに感謝の意を表明した。「長い間、エル・アロは私たちの故郷であり、多くの人が育ち、子供たちが成長するのを見た場所であり、また、この地を離れて新しい機会を求めるという難しい決断をしなければならない人もいました。今日は、私たちの町が忘れ去られることなく、再建に必要な資源を提供してくれることを願っています」と、エル・アロの虐殺で犠牲になったウィルマル・レストレポ・トーレス(Wilmar Restrepo Torres)の妹、ミラディス・レストレポ(Miladys Restrepo)は言った。生存している犠牲者の多くは、この瞬間を16年間待っていた。象徴的ではあるが、彼らはこの瞬間を非常に重要な一歩と見なしている。

 

 

参考資料:

1. “En Colombia hubo un genocidio reciente”: Petro pidió perdón en nombre del Estado por masacres de Ituango
2. Masacres de Ituango
3. “El Estado colombiano mató sus ciudadanos”: presidente Petro sobre masacres de Ituango
4. Las Autodefensas Campesinas de Córdoba y Urabá (ACCU)
5. Capítulo 2. Surgimiento y trayectoria
6. Gustavo Petro pidió que los sitios donde ocurrieron masacres sean intervenidos: “deberían hoy ser lugares hermosos”

 

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