センデロ・ルミノソ創設者アビマエル・グスマンの死とその人物像

9月12日国家元首のペドロ・カスティージョ(Pedro Castillo)は「テロリズムへの非難は確固として揺るぎないものである」と言うコメントともにセンデロ・ルミノソ(Sendero Luminoso)の創設者アビマエル・グスマン(Manuel Rubén Abimael Guzmán Reynoso)の死についてコメントした。同日午前6時40分、国立刑務所研究所(Instituto Nacional Penitenciario:INPE)のスサナ・シルバ(Susana Silva Hasembank)所長がリーダーの死亡を確認、その後、検察庁への死亡連絡の後、遺体は安置所に送られた。

 

国家警察の特殊情報グループ(Grupo Especial de Inteligencia del Perú:GEIN)が実施した「ビクトリー作戦」で29年前に逮捕され、1983年4月3日のアヤクチョ(Ayacucho)州ルカナマルカ(Lucanamarca)で起きた69人の農民の虐殺と、ミラフローレス(Miraflores)市タラタ(Tarata)通りでの自動車爆弾による虐殺で終身刑が下されていた。

偶然にもその死は、1992年7月16日に17人の命を奪ったタラタでのテロ事件に対し、グスマンとテロリスト中央委員会のメンバーに下された2回目の判決が出てから3周年の前日に訪れた。容疑者の逮捕という偉業を成し遂げたテロ対策局の精鋭チームGEINの元メンバーの1人は、その死を逮捕29周年の記念式典を準備している最中に知ったと言う。GEINの元チーフ、ベネディクト・ヒメネス・バッカ(Benedicto Nemesio Jiménez Bacca)大佐はその死の真実性を疑い、「アビマエル・グスマンが死んだことは確かか」、「1ヶ月前にも同じことを言っていたが、何も起こらなかったので確認して欲しい」とLa República紙の電話取材で答えた。

https://twitter.com/presidenciaperu/status/1437498384131239945

 

ルカナマルカの殺戮についてはグスマン自身も、1986年に公開された「世紀のインタビュー」の中で、その残虐性を認めている。それは軍隊の保護下で組織された農民の自衛団が彼らに対抗してきたことへの報復だった。彼の理論によるとセンデロ・ルミノソに参加していない者は、死に値すると決議しての行動だった。

タラタ襲撃事件を取り扱った裁判では、アビマエル・グスマンは責任逃れをしようと、標的は市民の家ではなく、ラルコ通りとシェル通りの角にあるバンコ・デ・クレディト(Banco de Crédito)の建物だったと主張した。この虚偽は実行犯として参加したカルロス・モラ・ラ・マドリード(Carlos Mora La Madrid)の証言によって暴かれている。

1980年5月17日以降、20年間で69,280もの命が奪われた。このテロ攻撃を設計、組織、指揮した人物こそが武装闘争の準備期間中には「同志アルバロ」と呼ばれ、シャイニング・パスの信奉者からは「ゴンサロ会長」と崇められ、シークレット・サービスからは「アビグル」(Abimael Guzmán Reinosoの頭文字)と呼ばれ、GEINの警察官からは「カシェトン」と呼ばれていたアビマエル・グスマン、その人だった。マルクス、レーニン、毛沢東に次ぐ「第4の男」と自身は主張していた彼の最後の地はカラオ海軍基地の独房となった。7月13日以降、健康状態が悪化していた囚人は老人医療を受けるために、7月20日に医療センターに入院、8月5日に退院するも、9月9日には再度容態が悪化した。

 

センデロ・ルミノソを擁護するような発言を過去実施したと強い非難を受けている首相ギド・ベジド(Guido Bellido Ugarte)は、テロ行為を非難するとともに「アビマエル・グスマンが死んでも、多くの傷はふさがらないだろう。それでも政府は被害を受けたすべての人々に対処していかなければならない」と述べた。また、アビマエル・グスマンが本当は死んでいないのではないかという疑念を払拭できない議員たちに向けては、検死解剖の後、その写真の公開を予定していると語った。

アニバル・トレス(Aníbal Torres Vásquez)法務大臣は、アビマエル・グスマンに親族がいないことから、法律に基づき、遺体は集団墓地に送られるか、火葬され「可能であれば遺灰は海に撒かれ、誰も彼のことを思い出せないようにする」と述べた。

フアン・カラスコ(Juan Manuel Carrasco Millones)内務大臣は、リーダーの死を受け街頭でのデモ、公共物や私有財産に対する破壊行為が実施される可能性があるとし、ペルー国家警察(Policía Nacional del Perú:PNP)の警備強化を発表。「国と政府は、すべてのテロ行為を非難し、これらの大量虐殺者の手によって命を落とした警察官、兵士、同胞のことを決して忘れない。政府が繰り返し述べている通り「ペルーは二度とテロは起こさせない」」と強調した。

「不平等や差別を克服し、民主主義と平和の中で、より公平な国を築くために努力を続けよう」そう語るのはペドロ・フランケ(Pedro Andrés Toribio Topiltzin Francke Ballvé)経済財務大臣だ。

29年前のリーダー逮捕は、センデロ・ルミノソの1世代の終焉を意味した。しかしその残党、分派がテロ行為を今でも継続している。その拠点でもあり、また、忘れ去られた土地としても知られるヴラエム(VRAEM)には軍事基地が再び配置されている。テロ組織、麻薬マフィアなどの抗争が多いこの土地の治安を維持、改善させるためだ。リーダーがいなくなったとしてもここに配備された軍は「1ミリも後退することはない」と断言し、さらなる取締りの強化について触れたのは国務大臣である。この地区では7月の大統領選挙直前、農民がまた虐殺された。犯行グループの発表はされていないものの、軍は慰留物からセンデロ・ルミノソの関係者による攻撃ではないかと、位置付けていた。

 

「Memorias desde Némesis」(2014年)でグスマンは自分の人生を振り返っている。1934年12月3日、アレキパのイスライ(Islay)州にあるモジェンド(Mollendo)港(正確にはラ・アグアディータ港)で生まれ、両親はアビマエル・グスマン・シルバ(Abimael Guzmán Silva)とベレニス・ライノソ・セルバンテス(Berenice Reinoso Cervantes)で、一人っ子だった。父はアレキパの海岸沿いにあるタンボ・バレーで農業を営んでいた。中学校を卒業し、会計学を学んだ。母はアレキパのインテリ家系出身で、彼女もまた中等教育を修了している。20歳くらいの時に亡くなった。

組織の創設者はアレキパにある国立サン・アグスティン大学()で哲学と法律を学び、父とチリ人の配偶者であるラウラ・ホルケラ・ゴメスと一緒に暮らしていた。その間、ペルー共産党と関わりを持つようになり、教授の推薦で1962年にサンクリストバル・デ・ウマンガ大学(Universidad Nacional de San Cristóbal de Huamanga)で教鞭をとる。1960年代のことだ。哲学と心理学を教えていた彼はウマンガで、ソ連の影響下にあった共産主義組織の内部抗争に巻き込まれ、その解体の一環として、1965年と1967年の2回、中国を訪問している。2回の渡航は彼に毛沢東の思想を学び、軍事訓練を受ける機会を提供した。その経験は政治組織を殺人マシンに変える知恵を育んだ。なおグスマンの最初の妻でウマンガ出身のアウグスタ・ラ・トレ・カラスコ(Augusta Deyanira La Torre Carrasco)がセンデロ・ルミノソのナンバー2だった。

サン・アグスティン・デ・アレキパ大学で彼と教室を共にした人によると、彼は寡黙で厳しい人物だった。アレキパのペルー通り109番地にあるバー「エル・クリジョン・セラーノ(El Crillón Serrano)」で飲んでいたときでさえ、彼は乱れることなくマルクス主義について語っていたという。その態度はサン・クリストバル・デ・ウマンガ大学でも変わらなかった、そう証言するのは同僚たちだ。なお自動車爆弾を使い攻撃の中心に常にいたかに見えたアビマエル・グスマンだが、実は行動派でなかったと言う。

「世紀のインタビュー」で、グスマンはあらゆるものを爆弾に変えられると語っている。参加した「爆発物のコース」ではその作成はまるで「一般的なロケット工学のようなもので、賢くやればあらゆるものが爆破できる」爆弾を作ることができると述べた。このコースの「カリキュラムは完璧なまでに作り込まれていた」。

1980年5月、12年間の軍事政権を経て、民主的に大統領が選ばれようとしていたその矢先、アビマエル・グスマンは、アヤクチョ州ビクトル・ファハルド県のチュスキで投票箱を燃やした。これが戦争の始まりだった。共産主義を押し付けようとしたための行動だが、彼の行為は人命と民主主義の芽を摘み取ることに他ならなかった。アビマエル・グスマンは、若い世代を率いて死と破壊の道を歩み、国を荒廃させ、平和的共存の可能性を失わせた。センデロ・ルミノソが戦いを通じて目指したのは政権奪取と共産主義政権、いわゆる新民主主義人民共和国(República Popular de Nueva Democracia:RPND)の樹立だった。

 

グスマンは田舎から、内陸部に向かってテロを指揮したと信じられてきたし、彼の信奉者たちもそう考えていた。でもそれは真実ではない。1970年代半ばの武装闘争の準備期間にはすでにグスマンは党活動の新たな中心地となるリマに住んでいた。この頃センデロ・ルミノソの前身はマリスカル・カセレス(Mariscal Cáceres)学校の生徒やサン・クリストバル・デ・ウマンガ国立大学の学生を派遣し「ポピュラー・スクール」を結成、地方でシンパを募っていた。リマでは軍や警察の高官、下院議員、市長、政治家、民衆のリーダーなどを暗殺、自動車爆弾を連続して使用した。暴力レベルが強化され、縄張り争いをさらにエスカレートさせていくこととなる。

テロ戦争が起きている間、行動派でなかった彼は何をしていたのだろうか。その答えはギリシャ人のゾルバによるビデオやセンデロ・ルミノソの指導的立場にいたメンバーの証言で明らかになっている。彼は当時モンテリコ、サンボルハ、ミラフローレスのサンアントニオなどに隠れ家を構え、リマで活動を続けていた。センデロ・ルミノソの過激派が内陸部の人を寄せ付けないような地域で法秩序や自衛グループとの衝突で命を落としている一方で、彼ははアジトの静けさの中で極上のワイン、最高の料理、上質なタバコ、酒、ダンスを楽しんでいた。

 

グスマンの遺体はカラオの地方刑事検察局のフリオ・ガルシア・ロメロ(Julio García Romero)検事、法医学者のダニエラ・ラモス・セラーノ(Daniela Ramoz Cerano)、カラオ刑事捜査局の警官2名と専門家1名によって確認された。報告書「Acta de levantamiento de cadáver A-5」には、死亡した時の状況が記載されている。検察の関係者はその「死体は海軍基地の一室の臨床用ベッドの上で背臥位の状態で発見された」と明らかしており、その時彼はベージュ色のジャケット、鉛色のズボン、青色の靴下、使い捨てのおむつを着用していた。また、右手の第4指にはエレナ・イパラギレ(Elena Iparraguirre)との結婚指輪と思われる金の指輪がはまっていた。

アビマエル・グスマンは、メスティーソ系の男性、身長1.67m、慢性的な下半身不随の高齢者、頭囲55cm、乾癬に関連する皮膚の鱗屑、長髪、長髭と説明されている。通常の衛生状態下にあり、上下の入れ歯で 右腸骨窩に4.5cmのケロイド状の傷があり、背側と仙骨部に床ずれがあった。また最近の外傷の痕跡は見られない。死体安置所の剖検プロトコルNo.326-21ではその死因を「両側性肺炎」と判断した。COVID-19のパンデミックで肺炎に関する多く入手した人も多いだろうが、グスマンの死を受け専門家ジュリアン・アルバが語ったことによると、両側性肺炎とは病原体(ウイルスや細菌などの微生物)が肺に炎症を起こすことで発症するもので、「このような非常に広範囲な両側の肺炎(炎症)が、不全を引き起こす。肺炎は呼吸時に空気で満たされる肺胞で構成されている肺を冒す呼吸器感染症で、肺炎患者の肺胞は、膿や液体で満たされているため、呼吸が苦しくなり、酸素の吸収が制限される」。

 

元GEINで、現役のPNP司令官であるホルヘ・ルナ・チュー(Jorge Luna Chu)が「アビマエル・グスマンの死によってシャイニング・パスが消滅したわけではない。なぜなら、この犯罪者のイデオロギーを共有する多くの信者がまだいるからだ」と述べているように、ペルーでは市民を危険に晒す可能性のある不安分子が存在する。この死はそれらにどのように作用するだろう。

 

国を良くしたいと言う強い意志を持っていただけの人間が、なぜテロリスト、殺戮者、犯罪者になってしまうのか。「綺麗事」は犯罪を正当化するためのものだったのだろうか。

※VRAEMはアプリマック・エネ・マンタロ川沿いの渓谷(El Valle de los Ríos Apurímac, Ene y Mantaro)の略称。別名ドラッグバレーとも呼ばれる。

 

参考資料:

1. “Condena al terrorismo es firme e indeclinable”
2. Murió en su celda Abimael Guzmán, el mayor homicida del Perú
3. Exagentes del GEIN: Es un golpe al corazón de los senderistas
4. Abimael Guzmán murió por una “neumonía bilateral”
5. Así fue hallado el cuerpo de Abimael Guzmán en la Base Naval del Callao
6. Memorias desde Némesis

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