ロス・マラゴネス最後の1人がこの世を去る

キューバ革命を支えてきた12人のロス・マラゴネス(Los Malagones)の最後1人フアン・キンティン・パス・カマーチョ(Juan Quintín Paz Camacho、通称フアニート(Juanito))が生誕の地ピナール・デル・リオ(Pinar del Río)で8月7日に亡くなった。死因はCOVID-19に伴う腎臓と心臓血管の合併症のためだった。彼の遺体は、1999年11月にラウル・カストロが開設したビニャーレスのエル・モンカダにある記念館に仲間の民兵たちとともに安置された。葬儀にはパンデミックの影響もあり、エル・モンカダのコミュニティの人々、家族、友人、州の党・政府当局、大衆組織の代表のみが参列した。

フアニートはいつもオリーブグリーンの服を着て、履きなれたブーツを履いていた。常に彼は「自分は死を恐れていない、自分の(戦いの)番が来ればそれに応じる」と言うほど意欲的で、戦いを忘れることはなかった。COVID-19の検査で病院に行く時も腰に銃をつけていた。COVID-19の陽性反応にも83歳のファイターは戦い続けウイルスを殲滅させたが、体には大きな傷を追っていた。

レアンドロ・ロドリゲス・マラゴン率いるグループは、マラゴネスと呼ばれ、キューバ初の農民民兵となった。革命の勝利後、国内で初めて作られた部隊であり、後の国家革命民兵の原型となった。シエラ・デ・ロス・オルガノス(Sierra de los Órganos)の地域で活動していた彼はグループの中で最年少、当初は反革命分子を捕らえることが役目だった。

1937年10月31日、サント・トマス地区(現在のモンカダ共同体)で生まれた彼は、他の戦友たちとは異なり、200カバレリー以上の土地を持つ農場オーナーの息子だった。他の11人のマラゴネスとは似つかない環境で育ち

ピナール・デル・リオの首都にある「ロス・エスコラピオス」に通い7年生まで教育を受けた。経済的な豊かさにかかわらず、農民の搾取を目の当たりにし、幼い頃から最も貧しい人々に起こっていることを現実的な口調で説明してくれる父親のもとで育つという幸運に恵まれていた。また、貧しい子どもたちと一緒に遊び、小屋を訪れ、他の人々の状況を自分のものにすることもできた。

マラゴネスの歴史は1959年8月に始まる。ピナール・デル・リオを旅していたフィデルは「反乱軍の一団が活動しているから気を付けろ」と警告された。アントニオ・ヌニェス・ヒメネスを介して農民のレアンドロ・ロドリゲス・マラゴンと知り合ったフィデルは、彼に11人の部下を集め反逆者討伐に向けすぐに訓練を始めるよう指示した。当時父親が経営する製材所で働いていた21歳のフアン・キンティンもその一人として招集された。彼の人柄と恐るべき射撃の腕前がマラゴンの目についていたからだ。

フアニートは1950年代半ばからアントニオ・ヌニェス・ヒメネスと接触、彼がこの地域で行った調査やレアンドロとの友情を通じて、12人グループの一員として声をかけられるようになっていた。マラゴンはマナグアのキャンプに連れて行き、さまざまな種類の武器の使い方や軍事的な規律について訓練した。

目的は上述の通り反逆者の逮捕であり、23の罪を犯したルイス・ララ・クレスポ(Luis Lara Crespo、別名エル・カボ(El Cabo))など一味を捉えることだった。「ララ伍長」として知られるララは、倒されたバチスタ独裁政権の拷問者であり殺人者であり、国家権力に対抗してきた反抗者であった。カバニャス地区の学生や労働者、農民などが犠牲者になったが、上官の虐待を暴露する兵士が出てきたので、ララ伍長は脱走、反革命グループを組織し国の領土を離れる目的で、ピナール・デル・リオの北海岸に沿って移動していた。

マラゴンと11人の仲間は以下の通りだ。

  • レアンドロ・ロドリゲス・マラゴン(Leandro Rodríguez Malagón)通称ヘフェ(jefe)
  • クルス・カマーチョ・リオス(Cruz Camacho Ríos)通称エル・ニーニョ(El Niño)
  • アルベルト・ペレス・レディア(Alberto Pérez Lledía)
  • アントニオ・ゴメス・ゴンサレス(Antonio Gómez Gonzále)通称エル・ネグロ(El Negro)
  • イラリオ・フェルナンデス・マルティネス(Hilario Fernández Martínez)
  • ヘスス・パディラ・ゴンサレス(Jesús Padilla González)
  • ホセ・アントニオ・アルバレス・カマーチョ(José Antonio Álvarez Camacho)通称ぺぺ(Pepe)
  • へラルド・ロドリゲス マラゴン(Gerardo Rodríguez Malagón)
  • ホセ・マリア・レディア・セバジョス(José María Lledía Ceballos)
  • エドゥワルド・セラノ・マルティネス(Eduardo Serrano Martínez)
  • フベンティノ・トレス・ベリス(Juventino Torres Véliz)
  • フアン・キンティン・パス・カマーチョ(Juan Quintín Paz Camacho)通称フアニート(Juanito)

1959年10月18日、ララを追うフアニート、エル・ニーニョ、ジョヴォ、エル・ネグロは反乱軍の戦闘員イシドロ・ラモス(Isidro Ramos)を伴ってビニャーレスのポンスのボデガを通過、そこで休息をとっていた。見回りに来ていた女の子が「ミンゴ」キンタナ(“Mingo” Quintana)の家に武装した男たちがいると教えてくれた。皆でその場所に向かっている道中、ポンズの鍛冶屋から800メートルほど離れた場所にある家に到着すると、突然銃撃を受けて戦闘になった。約25分後、逃げ場がないと判断したララ伍長は、残った3人の部下とともに隠れていた場所から出てきて投降した。この戦闘でイシドロ・ラモスが犠牲になった。エル・カポの捕獲にフィデルは90日の猶予を与えていたが、開始から18日目のことだった。

1959年10月26日、当時の大統領官邸で行われた、国家革命民兵の結成式にフアニートも参加。この時マラゴネスと呼ばれる農民パトロール隊の12人のメンバーは公に認めた。フアニートはこの出来事を自分の人生の最も重要な章と考え、記憶している。

最初のミッションの後、彼は対バンディット部隊に参加、最後の反乱軍が1965年に捕まるまで山賊との戦い(Lucha contra Bandidos)に身を投じていた。この作戦でフアニートは部隊の運営責任者を務め、革命軍の少佐の地位を得ている。

同年彼は市民生活に戻り、1969年までモンカダ農場でトラック運転手として働いていたが、フィデルが派遣したコミュニティとビニャーレスの町やピナル・デル・リオの町を結ぶ公共輸送バスの運転を任されることになった。1990年、彼は再び革命軍に動員され、2005年までサント・トーマス洞窟の軍事駐屯地にいた。退職後も自主的に洞窟の警備を続けていた。

 

フアニートは「常に革命を胸に抱き、そのために生き、そして死ぬ」そんな人間だったと語るのはピナール・デル・リオのPCC第一書記であるフリオ・セサル・ロドリゲス・ピメンテル(Julio César Rodríguez Pimentel)だ。

 

ラウル・カストロ陸軍大将(後の国家評議会議長)は40年以上にわたり、ロス・マラゴネスとその家族を気遣っていた
 

ご冥福をお祈りいたします。

 

参考資料:

1. Pinar del Río dice adiós a Juan Quintín Paz Camacho, uno de los 12 Malagones (+Video)
2. Falleció Juan Quintín Paz Camacho, uno de los 12 Malagones
3. Las Milicias en Cuba
4. Juanito Paz no abandonó su pistola ni perdió combate alguno
5. Día del Combatiente de la Lucha contra Bandidos

No Comments

Leave a Comment

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください