6月6日の決選投票から時が経つこと6週間。ついにペドロカスティージョがペルーの国家選挙審査委員会(JNE)から次期大統領に指名された。任期は2021年からの5年で着任はペルー200回目の独立記念日である7月28日になる。
馬に乗って投票所に現れた彼はなんだかとても目立っていた。それはトレードマークのつばの広い麦わら帽子のせいかもしれなかったし、いつも持ち歩いている大きな鉛筆のせいかもしれなかった。半年前、そんな彼がペルーの大統領になるなど、誰も予想していなかった。事実大統領選第1回投票前の4月6日にイプソス(IPSOS)が行った世論調査では候補者18名中7位だったし、おかげで競合候補からネガティブキャンペーンをされることもなく第1回投票を迎えることができた。その結果はご存知の通りのダークホース的に1位通過した。
6月の第2ラウンドは大変だった。対抗馬のケイコ・フジモリの考えがまるで対極にあり、国は二分化した。センデロ・ルミノソ(Sendero Luminoso)との関係を強調され、左派が大統領になればペルーがベネズエラ化するなどと言った相手陣営、メディアからの批判とネガティブキャンペーンが相次いだ。その結果最後の最後まで次期大統領が誰になるか、誰も想像がつかなかった。
カスティージョが過去話題に登ったことがあるとすれば2017年のことだろう。教師でペルー教職労働者統一組合(Sindicato Único de Trabajadores de la Educación del Perú:SUTEP)の地域リーダーを務めていたカスティージョは、ペドロ・パブロ・クチンスキー(Pedro Pablo Kuczynski)政権下で、全国規模の教員ストライキを主導した。そこでは給与の改善と教育部門の予算増額を要求していた。もしかしたらそれ以前2002年のアンギア(Anguía)市長選で彼を知った人もいるかもしれない。この時はPerú Posible党から出馬し落選した。2005年から2017年には同党の中道左派路線を行くカハマルカ委員会のメンバーだった。とは言え、選挙開始時にもTwitterフォロー数はたった3000人と、この人物への注目度が低かったことは誰の目にも明らかだった。大統領選に出たのもPerú Libre党首ウラジミール・セロンがフニン州知事時代に不適合な交渉と職権乱用をしたとして失脚、3年9カ月の執行猶予付きの禁錮刑となった事による。Perú Libreから大統領候補を擁立できなかった同党はカスティージョに白羽の矢を立てた。セロンに代わる大統領候補としの参戦をオファーしたのだ。
そして次期大統領について見ていこうこととしよう。
1969年10月19日、カハマルカ(Cajamarca)県チョタ(Chota)州タカバンバ(Tacabamba)プニャ(Puña)村でペドロ・カスティージョ(José Pedro Castillo Terrones )は生まれた。1990年、同じカハマルカ県のクテルボにあるInstituto Superior Pedagógico Octavio Mattos Contreras で教育学を学び始めた。1995年からはプーニャの教育機関No.104565で働いている。教師以外にも家族の農場でサツマイモを栽培を手伝っている彼は9人兄弟の3番目に生まれた。 父親イレニョ(Ireño Castillo Núñez、81)と母親マビラ・テロネス(Mavila Terrones Guevara、75)は文盲で、この土地の集落の農場で長年、土地なし小作人をしていた。石とアドビ、トタン屋根の質素な家に住んでいる。ナタを持ち、使用済みタイヤで作ったサンダルを履き、麦わらでできたつばの大きな伝統的な帽子「チョタノ」をカブったイレニョは、自分は貧しく土地代を支払うことでいっぱいで、子どもを教育するだけのお金は持っていなかったと言う。さまざまな場所にカスティージョを連れて行っては、お金を稼ぐとは、働くとはどのようなものなのかを少年に見せていたという。カスティージョが12歳になる頃には年に一度、140キロの道のりを2日以上かけて歩き、アマゾン地域まで行ったと言う。そこで父はコーヒー豆の収穫の日雇い労働者として1ヶ月間働いていた。小学校に当たる時代を地元コミュニティ・スクールで兄弟とともに学ぶが、そこで今の妻と出会うこととなる。小学校を卒業後、毎日朝5時になるとペドロは典型的な羊の毛のポンチョとチョタノをかぶり、母親が用意してくれた冷たい肉とともにに家を後にした。2時間かけて泥の中を歩き売りに行くのは自身のノートや学校の制服を買うただった。授業のない日は一日中農場で働き、トウモロコシやジャガイモを育て、牛の世話をする、そんな少年時代を送っていた。カスティージョだけが兄弟の中で唯一大学に進学しているが、その背景には驚くほどの苦労があった。現在は3人の子供アーノルド(Arnold、16)、アロンドラ(Alondra、6)、ジェニファー(Jennifer、23、養子)に恵まれるとともに、カスティージョ自体はカトリック教徒でありながら福音主義者の妻リリア・パレデス(Lilia Ulcida Paredes Navarro )を持つ。
教育心理学の修士号を持っているカスティージョだが、若い時からロンデロ(rondero)として町を守る、そんな使命感を持っていた。このロンデロとは、暴力によってペルーに共産主義を押し付けるために政府と対立していたセンデロ・ルミノソやモビミエント・レボルシオナリオ・トゥパック・アマル(Movimiento Revolucionario Túpac Amaru:MRTA)のようなテロ組織から自分たちを守ろうとする地域防衛組織ロンダス・カンペシーナスのメンバーのことを言う。ペルーの農村では、学校の先生は地域社会で大きな影響力を持ち、社会的に尊敬される存在である。それは低賃金でもコミュニティのために働いてくれていることにもよる。そしてこの経験もまた彼を組合活動へと導いた。
「ペルーはなぜこんなにも資源があるのに、なぜ多くのペルー人がこんなにも貧しく、こんなに機会を得ていないのか」これが彼の口癖だった。
カスティージョの故郷チョタは豊富な鉱物資源があるにもかかわらず、国内で最も貧しい地域の1つだ。金の最大の産出地であるのに、不平等な扱いも過去からずっと受けている。育った環境がそのマインドを彼に植えつけたのだ。選挙公約でも多国籍大規模鉱山会社による資源搾取に立ち向かうことを表明し、環境や健康への懸念からティア・マリア(Tia Maria)やコンガ(Conga)における鉱山プロジェクトの継続停止を述べている。主要鉱山のある地域でのカスティージョへの支持率の高さは、資源からより高い利益を求める鉱山会社と地域社会との長年にわたる対立の結果、緊張感が高まっていることの現れでもあった。コタバンバス(Cotabambas)、エスピナール(Espinar)、チュンビビルカス(Chumbivilcas)などの鉱山地帯では、10人に9人以上がカスティーヨに投票するほどだった。これらの地域には、中国のMMG社が運営するラス・バンバ(Las Bambas)、Glencore社のアンタパカイ(Antapaccay)、カナダのHudbay Minerals社のコンスタンシア(Constancia)などの巨大な銅鉱山がある。選挙結果によると主要な鉱物(金、銅、銀、亜鉛)が眠る土地少なくとも10州で、カスティージョは65%以上の支持を得ており、これらの地域では改革を求める声が強かった。チュンビビルカスでは、カスティージョが96.5%もの得票率を獲ていた。なおこれらの土地が、ケイコによる証拠なき「不正投票」発言につながったと想定される(私未確認)。新自由主義の理念を重要視するケイコはこれら鉱業地域に住む人々の支持を得るために、鉱業地域の権益を原資にこの土地に住む住人に現金を配ることを公約として掲げていたが、彼らには十分ではなかったようだった。カスティージョは鉱業利益の最大70%を国家が保持し、特に貧困率の高い鉱物資源地域の保健・教育プログラムに投資すると提案をしていた。
彼の性格や政治への強い信念は、過去の経験に基づく。だから公約でも注力ポイントとして国の発展には「健康」「教育」「農業」の3つのが必要だと訴えかけていた。
パンデミック対策のためには、公衆衛生の科学者や技術者、研究者からなる評議会を招集。科学技術・研究省を設立し、ワクチンの早期摂取を目指す。教育については、健康を害することなく対面式の授業に早期復帰できるようにすると述べた。「対面式」が重要なのは、教師の視点から見て教育における直接的な関係が必須だと考えているからだ。子どもたちは仲間と社会的につながることが必要であり、それは社会情緒的な発達の一部だ、としている。農地改革は農地と参加型の農村開発であり、領地的なアプローチで下から農業を管理するための重要な政治的決定であることを強調している。
カスティージョは1年間で100万人の雇用を創出することを約束し、また不平等を導いてしまっている現行憲法に代わる新憲法を制定するため、憲法制定議会を開催する予定だ。マグナカルタ(1993年)は、アルベルト・フジモリ政権(1990年~2000年)時代に作ったものだ。またこのほかにも、不法滞在の外国人、犯罪を犯すために来た外国人には72時間の期限を設け強制送還させるようにすると述べている。安全保障への取り組みでは、治安の悪さと戦うために、ペルーがサンホセ条約から脱退し犯罪者の死刑制度を再構築することを提案している。カトリックの強い信者であることから、中絶、同性婚、安楽死には後ろ向きである。
彼を綴った動画とともに、今回選挙で使われた応援歌も2017年のストライキの時の歌とともに紹介しよう。2017年はエステバン・ノリエガ(Esteban Noriega)による歌「Maestro en la Lucha(仮題:戦う教師)」とともによく使われたスローガン”no somos uno, no somos dos, ahora somos todos a una sola voz” は、今回もまた使われた。
Pedro Castillo Hoja de Vida by Jair Martín Zevallos Morón
参考資料:
1. Quién es Pedro Castillo, “el primer presidente pobre” de Perú
2. Quién es Pedro Castillo, el maestro rural que desde la izquierda desafía a las élites y que (finalmente) fue designado presidente electo de Perú
3. Quién es Pedro Castillo, el maestro de escuela y líder sindical de izquierda que competirá por la presidencia de Perú
4. Pedro Castillo: perfil del nuevo presidente de la República
5. #EligeBienPerú
No Comments