ブラジル:アマゾニアで倒木が倒れたことで、古代文明の手がかりとなる壺が見つかる

(Photo: Geórgea Holanda

2025年6月、ブラジル政府は、何世紀あるいは何千年も地中に埋まっていた陶器の壺を、葬送用の骨壺であると特定したと発表した。考古学者たちは、これらの骨壺が1500年のヨーロッパ人到来以前に作られたものであると考えている。しかし、それが500年前のものなのか、1000年前なのか、あるいは3000年前のものなのか、正確な年代はまだ特定できていない。ただし、ポルトガル人が約500年前にブラジルに到来する以前に、この地域に住んでいた先住民族によるものであるとみられている。研究者たちは、この発見をアマゾニアでこれまでになされた考古学的発見の中でも、最も重要なものの一つに分類している。

2024年10月、これらの骨壺はアマゾナス州(Amazonas)のミディオ・ソリモインス地域(Médio Solimões)で偶然発見された。フォンチ・ボア市(Fonte Boa)の氾濫原で巨大な木が倒れたとき、アマンダルビーニャ地域(Amandarubinha)の漁師たちは奇妙な光景に気がついた。二つの木の根が、巨大な陶器の壺のようなものを地表に押し上げていたのである。誰もそれが何なのか、誰が埋めたのかはわかっていない。

 

この壺の物語のすべての始まりは、地域コミュニティの直接的な貢献によるものである。この地域の住民であり、ピラルクー(pirarucu)の管理者であるワルフレド・セルケイラ(Walfredo Cerqueira)が、倒れて根が露出した一本の木の写真を地元住民から受け取ったことに端を発する。

「アラマンドゥバ・グランジ(Aramanduba Grande)のコミュニティの住民が、この倒れた木を目にして、こうした壺が現れたのだ。彼らはあまり重要視しなかったが、私にこの写真を回してくれた。私はとても興味深いと思った」とワルフレドは語っている。

ワルフレドはこの発見の可能性に気づき、テフェ市(Tefé)で受刑者司牧(Pastoral Carcerária)に従事する神父ジョアキン・シルバ(Joaquim Silva)に相談した。神父ジョアキン・シルバはさらに、アマゾナス州テフェ(Tefé)にある持続可能な開発マミラウア研究所(Instituto de Desenvolvimento Sustentável Mamirauá)の「アマゾンの考古学と文化遺産管理研究グループ」(Grupo de Pesquisa em Arqueologia e Gestão do Patrimônio Cultural da Amazônia)の考古学者たちに連絡を取った。

そして1月、研究所の考古学者たちは地域コミュニティの協力を得て、遺跡への調査遠征の計画を開始した。研究者たちは、ワルフレド一家がすでにカヌーで到着を待っていた場所まで、船で約24時間かけて現地へ向かった。その後、地域の水路やイガラペ(igarapés)をカヌーでさらに2時間進み、ベースキャンプに到着した。そして、倒れた木のある考古遺跡まで、密林の中をさらに1時間歩かなければならなかった。

研究者たちは地域に約1か月滞在し、地元コミュニティの協力を得ながら、土と根が複雑に絡み合った場所から陶器を安全に取り出すための構造物や道具、方法を作り上げた。この発見は、持続可能な開発マミラウア研究所(Instituto de Desenvolvimento Sustentável Mamirauá)の「アマゾニアの考古学と文化遺産管理研究グループ」(Grupo de Pesquisa em Arqueologia e Gestão do Patrimônio Cultural da Amazônia)の考古学者と、地域コミュニティのメンバー、特にサン・ラザロ・ド・アルマンデュビーニャ(São Lázaro do Arumandubinha)コミュニティとの協働の成果であると、政府は述べている。

Photo:Geórgea Holanda

 

すべての作業を経て、調査グループは合計7つの骨壺を発見した。いずれも木の根系から取り外すのに多大な労力を要した。いくつかは破片状で、巨大な木の根の間に絡まるように存在しており、人骨が納められていた。最大の壺は直径ほぼ1メートル、重量は約350キログラムに達し、最小の壺でも180キログラムある。

初期分析で発見された人骨が、これらが葬送用の骨壺であることの証拠となった。「これはほぼ確実に埋葬の文脈を示している。そして、これらの埋葬は、おそらく当時その場所に存在した古い家屋の下にあったのだろう。なぜなら、そこは村であり、都市でもあったからだ」と、発掘を主導したマミラウア研究所の考古学者マルシオ・アマラウ(Márcio Amaral)は説明する。「この大きな骨壺を根から外すには丸一日を要し、さらにそれを運び出すには6人の男手が必要だった」とも彼は付け加えた。

骨壺を土中から取り出し、テフェ市にあるマミラウア研究所のラボへ運んで研究するまでには、複雑な工程が必要であった。漁師仲間に働きかけて発掘を手伝わせた地域リーダー、ワルフレド・セルケイラは、その特異な経験を振り返っている。「私たちは鍬を持って行けば、簡単に物を動かせると思っていた。しかし、テレビで見た考古学者の作業から、これは時間のかかる仕事になると分かっていた」とワルフレドは語った。

この木が倒れた場所は、ミディオ・ソリモインス地域にあるコシーラ湖(Lago da Cochila)として知られる考古遺跡である。ここは地域に点在する70以上の人工高台の一つで、約2000年前、先住民族が河川の増水期の洪水を避けるために築いたものである。「この地域の過去について私たちが知ることは非常に少なく、そこへ到達すること自体も困難であることを考えれば、これは本当に前例のない発見である」と、発掘には参加していないパラー西部連邦大学(Universidade Federal do Oeste do Pará)の考古学者カレン・マリーニョ(Karen Marinho)は述べている。また、パラー州立エミリオ・ゴエルジ博物館(Museu Paraense Emílio Goeldi)の考古学者ヘレナ・ピント・リマ(Helena Pinto Lima)は、地元コミュニティとの協働が極めて重要であったと評価している。「この作業が非常にうまくいったのは、まさに考古学チームと地元コミュニティとの間に築かれた協働の歴史と歩みのためである」と彼女は述べた。

現時点わかっているのは、葬送用骨壺の発掘に携わっている考古学者ジョルジャ・レイラ・オランダ(Geórgea Layla Holanda)と同僚たちが報告しているように、発見された骨壺は、これまで近隣地域で発見されている遺物とは一致していないと言うことだけである。考古学者たちは、誰がそれらを埋葬したのか、またその正確な年代がいつなのかについて、いまだ把握していない。現時点では、回答よりも多くの疑問を生み出しており、新たな謎を作り出している。

その年代を特定できない理由は非常に明確である――資金不足である。「この資料が何年前のものか知るには、放射性炭素年代測定(carbono 14)が必要である。しかし、現地で解釈できた内容を年代測定するための資金はまだない」と、ジョルジャ・レイラ・オランダは述べている。

Photo:Geórgea Holanda

 

アマゾン初期の陶器について何がわかっているのか?

アマゾニアの陶器には長い歴史がある一方、湿潤かつ高温の環境下ゆえ、残存し得る遺物は数少ない。この環境は考古学的保存には理想的とは言えない。

アマゾン地域で知られる最初期の人類居住者は、ポコー=アスートゥバ様式(Pocó-Açutuba)の陶器を制作しており、その年代は紀元前1500年から紀元200年とされている。この伝統の陶器容器には、さまざまな種類の刻線を伴う豊かな装飾が施されていた。

続いて登場したのが、主に壺や陶器容器の縁に刻みが施されるボルダ・インシーザ伝統(Borda Incisa)である。そして最終的に、5世紀から16世紀にかけて、ポリクローム陶器の伝統(cerâmica policromada)が現れ、白または灰色の地に茶、赤、黒、橙などの天然顔料による多色装飾が施されるようになった。

しかし、新たに発見された骨壺は、ミディオ・ソリモインスやブラジル・アマゾニア全域で知られるいずれの陶器伝統にも属さないように見える。「これは、これまで記録のなかったタイプである」と、マルシオ・アマラウは述べている。また、これらの新発見の骨壺には陶製の蓋がない点が、芸術的観点からも既知の遺物と異なる特徴となっている。ジョルジャ・レイラ・オランダは、「これらは大きな容量を持ち、陶製の蓋が見当たらない。これは現在では分解してしまった有機物による封印が使われていた可能性を示唆する。骨壺は地表から40センチの深さに埋められており、おそらく古い家屋の下にあったのだろう」と説明している。

研究には参加していないパラー西部連邦大学(Universidade Federal do Oeste do Pará:UFOPA)の考古学者アンヌ・ラップ・ピ・ダニエル(Anne Rapp Py-Daniel)はこれらの葬送用骨壺は既知の様式よりも丸みを帯びていると指摘している。

Photo:Geórgea Holanda

 

古代の先住民族はどのように死者を埋葬していたのか

これらの骨壺を芸術作品に高める豊かな工芸は、アマゾンの古代先住民族が死とどのように向き合っていたかを雄弁に物語っている。「彼らにとって、死とは瞬間ではなく、プロセスである」とピ・ダニエルは述べる。死は、特に故人がコミュニティで重要な役割を担っていた場合、共同体全体の努力と献身を伴う通過儀礼の一つであった。

骨を陶器容器に納めることは、葬送過程の第二段階であったとピ・ダニエルは説明する。第一段階では、死者は肉を除去するための儀礼を受けなければならなかった。これは土葬、火葬、あるいは川への水葬によって行われ、遺体は編み込まれた網に包まれ、魚が肉を食べられる状態に置かれた。

その後、骨は慎重に収集され、整えられ、別の儀礼の中で骨壺の内部に納められる。「宣教師の影響でも伝統を失わなかった先住民族のグループの中には、いまも完全または部分的にこの儀礼を続けているところがある」とピ・ダニエルは述べている。

アマゾン全域で、多くのグループは死者とともにこれらの骨壺を家屋の下に埋葬しており、現在もその習慣を続けるグループも存在すると、発掘をマミラウア研究所のマルシオ・アマラウと共に主導した考古学者ジョルジャ・オランダは語る。「SNSでは、多くの人々が『どうして木が骨壺の上に育ったのか』と私たちに質問してくる」と彼女は述べる。しかし「おそらく、その地域に住んでいた人々が去った後に、木が成長したのだろう」。木が成長するにつれて、その根は骨壺の内部に入り込み、骨から出る栄養分に引き寄せられた可能性があるとオランダは付け加える。木の正確な年齢は不明であるが、その大きさから数百年は経過していると推測され、研究者たちは骨壺のほうがさらに古い可能性が高いと考えている。

Photo:Geórgea Holanda

 

コミュニティ志向の考古学

現時点では、骨壺の正確な年代と起源は依然として謎のままである。いくつかの陶器片の周囲から魚やカメの骨が見つかっていることも、新たな疑問を投げかけている。「これらの遺骨が何であるのか——儀式に関連したものなのかどうか——まだ解明しなければならない」とマミラウア研究所の考古学者マルシオ・アマラウは述べる。

研究者たちは現在、骨壺の内部に残された堆積物を清掃・掘削しつつ、資料の研究のための資金を探している。最終的には、骨片や炭の断片の放射性炭素年代測定を行い、より正確な年代推定を得ることを目指している。「すべては資金と、私たちが得られるパートナーシップにかかっている」と考古学者ジョルジャ・オランダは強調する。

多くの不明点が残るにもかかわらず、アマラウとオランダは、この発見で最も重要だった点は、アルマンデュビーニャ(Arumandubinha)およびアララー(Arará)の先住民族集落の住民が深く関与したことであると考えている。住民たちは、発掘の各段階を計画するうえで考古学者たちを助けた。「要望は彼らから出たものである。彼らはこれらの遺物が何であるかを知りたがっていた。そうでなければ、私たちは決してこの骨壺の存在を知ることはなかっただろう」とアマラウは述べる。コミュニティのメンバーは、骨壺にこれ以上の損傷を与えずに取り出すための特別な足場を作り、また最も良い発掘のタイミングについて研究者たちに助言した。「これらすべては、彼らなしでは不可能だった」とオランダは結論づける。

 

研究について

発見された骨壺の内部からは、人骨、魚類、カメ類(ケロニオ〔quelônios〕)の断片が見つかり、儀礼や食習慣と結びついた葬送の実践を示している。これらの遺物は、ラゴ・ド・コシーとして特定された考古遺跡で回収された。この場所は、先住民族が数世紀あるいは数千年前に築いた人工島群の一部である。人工島は、氾濫する地域に土や陶器片を用いて土地を嵩上げし、増水期でも住居や社会活動を維持できるようにしたものである。

今回の調査作業で採用された方法論は、技術的観点および社会的観点の両面で革新的である。発掘は地域コミュニティの積極的な参加のもとで行われ、遠隔地であることや河川環境という特異な条件に対応するため、複雑な物流上の調整が必要であった。

「これらの人工島は、より高い氾濫原の土地に築かれた考古学的構造物で、他の場所から持ち出された土や陶器片を混ぜ、意図的に配置して基盤を作っている」と考古学者マルシオ・アマラウは説明する。「これは非常に高度な先住民族の土木技術であり、過去における土地管理能力や人口密度の高さを示している」。

骨壺が発見された条件のため、発掘作業は地域コミュニティ自らが木材とつるを用いて構築した高床式の構造物上で行う必要があった。地形の複雑さは、チームにこれまでにないアプローチを要求した。「地面から3.2メートルの高さで、層位管理のための測点(dátum)を設置して発掘することはこれまでなかった。完全に協働的で前例のない作業であった」とアマラウは述べる。骨壺をマミラウア研究所まで輸送することも、物流上の大きな挑戦であった。この作業にはカヌーの使用、一時的なキャンプ、そして遺物を保護するための手作りの方法が含まれた。

発見があったフォンチ・ボア市はテフェから直線距離で約190km離れているが、川を利用した移動では水流や使用する船により10〜12時間かかる場合がある。さらに、考古遺跡は最寄りのコミュニティからも数時間離れており、イガラペや水没地帯を通過する移動が必要であった。

 

陶器が示すあまり知られていない文化圏

収集された資料は、テフェにあるマミラウア研究所の研究所で分析およびキュレーションが行われている。初期の結果では、多様な陶器が確認され、アルト・ソリモインスにおけるまだ十分に知られていない文化的地平を示唆している。

発見物の中でも注目されるのは、希少な緑色粘土の使用や、これまで知られているアマゾンの多色陶器伝統(Tradição Polícroma da Amazônia)などの既知の陶器伝統とは直接的な関連が認められない、赤い釉薬(engobes)や帯文様を施した断片である。

これらの発見は、氾濫原地域の占有に関する理解を広げ、先住民族の文化の複雑性を明らかにしている。具体的には、儀礼的な骨壺の使用、人工島の建設、食習慣に関連した埋葬などの実践が示されている。これらの証拠は、氾濫原が単に一時的な居住地であったという考えに疑問を投げかけ、環境に適応した継続的な定住の存在を示唆している。

この研究は地域コミュニティとの共同作業で進められ、伝統的知識との対話が不可欠であったことを示している。「これは内側から外へ向かう考古学であった」と考古学者マルシオ・アマラウは強調する。

骨の分析を含めた研究を進めることで、数世紀前に世界最大の森林で暮らしていた人々の年齢、性別、食生活などを評価することが可能になると言う。

 

参考資料:

1. O mistério arqueológico descoberto na Amazônia
2. Descoberta inédita na Amazônia: queda de árvore dá pistas sobre uma antiga civilização
3. Urnas funerárias descobertas no Amazonas revelam práticas indígenas ancestrais

No Comments

Leave a Comment

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

error: Content is protected !!