映画:『家へ帰ろう』が教えてくれるポーランドのホロコーストとアルゼンチンの関係

アルゼンチンに住む88歳の仕立屋アブラハムは、最後の旅に出る。目的地はポーランド。ポーランドはアブラハムにとって生まれ故郷であると同時に、深いトラウマの詰まった場所でもある。70年前、アブラハムがポーランドで経験したホロコーストの記憶と思い出はあまりにも過酷で、アブラハムは自らの故郷の名前すら口にすることができないほどである。それでも、アブラハムが家族の反対を押し切ってまで「そこ」へ向かうのには、確かな理由があった。ホロコーストから命を救ってくれた親友との約束――すなわち、自らが仕立てた「最後のスーツ」を命の恩人に届けたいという強い思いがあったのである。

 

アルゼンチンにイタリア系の人々が多く暮らしているのは、よく知られた事実である。19世紀後半のイタリアは、政治的・経済的な困難に直面し、多くの国民が生活の向上を求めて海外への移住を選んだ。その渡航先の一つがアルゼンチンであった。農業や建設業などで労働力を必要としていたアルゼンチンは、経済発展の手段として積極的に移民を受け入れており、土地の提供や税制の優遇措置などの政策は、多くの移住者を引き寄せた。1900年時点で、アルゼンチンの人口のおよそ30%がヨーロッパからの移民であり、その多くがイタリア出身者であったとされている。第二次世界大戦後も、戦争による経済的困窮や政治的混乱を避けるため、イタリアからの移民は続いた。

アルゼンチン(総人口は4,500万人以上)におけるポーランド系アルゼンチン人の存在は、イタリア系移民ほどの規模には及ばないものの、中規模程度のグループとして一定の存在感を示している。特に、ブエノスアイレス(Buenos Aires)、コルドバ(Córdoba)、サンタフェ(Santa Fe)、エントレリオス(Entre Ríos)などの都市や地方に多く分布している。ポーランド系アルゼンチン人(ポーランドからの移民の直系の子孫に加え、移民2世、3世を含む)の人口は、およそ10万人から20万人と推定されている。

ポーランド人によるアルゼンチンへの移住の傾向は、大きく三つの波に分けられる。第一の波は、19世紀後半から20世紀初頭にかけてである。この時期、ポーランドは三国分割という歴史的な状況下にあり、特に農業労働力としての移民が多く、アルゼンチンの広大な土地で新たな生活を築くために渡航した。次に、第一次世界大戦後の戦間期(1930年代)においては、戦争の影響やポーランド国内の困難な政治的状況から逃れようとする人々が移住を決意した。戦争による社会不安や経済的困難が、移民の流れを加速させた。そして第三の波は、映画の主人公アブラハムのような、第二次世界大戦後(1940年代)に起きた移住である。ナチス・ドイツによる迫害やホロコーストの影響を受けた多くのポーランド系ユダヤ人および非ユダヤ人が、戦争の終結とともにアルゼンチンへと渡った。戦争で家族を失った者、過酷な状況から逃れようとする者、新たな生活を求める者たちによる移住であった。

 

第二次世界大戦中、ポーランドにおけるユダヤ人の状況は非常に悲惨であり、戦後もその影響は長く続いた。ポーランドは当時、世界で最も多くのユダヤ人を抱えていた国であり、戦争前には約350万人のユダヤ人が居住していた。しかし、ナチス・ドイツの占領下において、ポーランドのユダヤ人の大多数が絶滅的な犠牲を強いられた。

1945年、ポーランドは第二次世界大戦中のナチス・ドイツおよびソビエト連邦による二重の占領から解放されたが、その直後にソ連の支配下に置かれることとなった。ポーランドは政治的・経済的に大きな転換期を迎える。1945年1月までに、ソ連軍がドイツ軍を駆逐し、ポーランド全土を制圧したことで、ソ連の支援を受けた共産主義政権が樹立された。これにより、ポーランドには中央集権的な計画経済体制が強制的に導入された。同年に行われたヤルタ会談において、連合国の決定はポーランドの戦後の国境と政治体制に大きな影響を及ぼした。結果として、ポーランドの国土は西方へと移動した。この激動の時期には、かつてナチスやソ連に抵抗していた国内軍(アルミア・クラヨヴァ、Armia Krajowa)の元兵士たちが新たに迫害の対象となった。このようにしてポーランドは、名目上の「解放」ののち、事実上ソ連の勢力圏に組み込まれた。主権は制限され、政治的抑圧と経済的統制の時代へと突入することになったのである。

第二次世界大戦中、アルゼンチンに到着したポーランド人の数はごくわずかであった。作家ヴィトルド・ゴンブロヴィッチ(Witold Gombrowicz, 1904–1969)のように、1939年に建造されたポーランドの豪華客船「MSクロブリ(MS Chrobry)」の処女航海の乗客としてアルゼンチンを訪れていた者もいた。また、ユダヤ系出身の著名なチェス選手ミェチスワフ・ナイドルフ(Mieczysław Najdorf, 1910–1997)のように、1939年8月にブエノスアイレスで開催されたチェス・オリンピアードにポーランド代表として出場していた人物もいた。彼らは戦争の勃発によって国外で足止めされ、当初は移住を計画していなかったにもかかわらず、ヨーロッパへ戻らないという決断を下したのである。

アルゼンチンは第二次世界大戦中、中立を維持し、主要な軍事行動からは距離を置いていた。しかし、戦争勃発後、アルゼンチン在住のポーランド系移民約2,000人が、ヨーロッパで編成されつつあったポーランド軍に志願し、連合国軍の志願兵として参加している。1940年10月以降には、ポーランド系市民を対象とした軍への志願募集が、アルゼンチンをはじめ、ブラジル、ウルグアイ、パラグアイでも行われた。そのうち19名は、勇敢な行動によりポーランド最高位の軍事勲章である「ヴィルトゥティ・ミリタリ勲章(Virtuti Militari)」を受章し、戦後アルゼンチンに帰還した。一方で、第二次世界大戦中に戦場で命を落とした69名のポーランド人志願兵の名は、ブエノスアイレスにある「カサ・ポラカ(Casa Polaca、ポーランド会館)」に設置された記念プレートに刻まれている。

 

ポーランドからの移民数は、1946年から1950年にかけて増加した。この最後の移民の波は、1945年以降に西ヨーロッパに滞在していたポーランド国民のうち、共産主義政権下となった祖国への帰還を拒み、国外での生活を選択した人々によって構成されていた。この「第三のグループ」の移民は、それ以前の二つの移民グループと比較して、いくつかの点で顕著に異なっていた。まず、彼らの移住動機は経済的理由ではなく政治的理由に基づいていたこと。次に、社会的構成として中産階級および上層階級の比率が高かったこと。さらに、男女比において圧倒的に男性が多かったこと。そして、軍人や技術職を中心とした専門的教育を受けた人々が多かった点が挙げられる。

他の者たちは、ドイツ占領下の経験を経ていた。彼らはナチスによる迫害の犠牲者であり、ドイツ本国の強制収容所に送られた者、あるいは強制労働者としてドイツに連行された者も含まれていた。このグループには、1939年9月の戦役やワルシャワ蜂起における戦闘で捕虜となった者たちも含まれている。戦争が終結した時点で、彼らは連合国によって解放された地域におり、ソ連の支配下に置かれたポーランドには戻らないという決断を下した。こうした人々は、西側諸国のいずれかに短期間滞在したのち、しばしばウルグアイやパラグアイを経由して、アルゼンチンを新たな定住地として選んだ。

一方、アルゼンチンにおけるポーランド人移民の中で、おそらく最も多数を占めていたのは、ソ連による占領を経験した人々であった。彼らは、旧ポーランド東部領(キレス(Kresy)地帯)における悲劇――すなわち、ソビエト連邦による占領後に実行された計画的な民族浄化、およびシベリアやカザフスタンへのポーランド人住民の大規模な強制移送を生き延びた人々である。

戦後のアルゼンチンにおけるポーランド人移民の多くは、元軍人および将校であった。その出自は、1939年9月以降にフランス、後にはイギリスで編成されたポーランド軍部隊の出身者や、シベリアから解放されたのち、1941年および1942年にソ連領内で編成されたポーランド軍に参加した者たちであった。

第三波の移民たちは主に都市部、特にブエノスアイレスに定住した。彼らは現地のポーランド系コミュニティの生活に加わり、多種多様な退役軍人団体や専門職団体を設立した。第三波の移民たちは、多くが高い職業的訓練を受けていた。彼らの専門性と活動性の証として、アルゼンチン・ポーランド技術者・技師協会(Asociación de los Ingenieros y Técnicos Polacos en Argentina)が設立され、その後、ポーランド大学卒業者協会(Asociación Polaca de Graduados Universitarios)へと発展した。この協会の設立者には、戦前ポーランドでも既に評価されていた機械工学の著名な技術者で、1939年以前には国営兵器工場(Państwowa Fabryka Karabinów)の所長を務めていたヴィトルト・ヴィエジェイスキ(Witold Wierzejski、1882–1950)が含まれる。彼は1945年にアルゼンチンに渡り、ロサリオにある兵器工場で兵器製造の監督を務めた。この最後の移民波には、ポーランド貴族出身の人々も含まれていた。彼らは戦争中に従軍していたことが多かったが、戦後は共産主義政権下で「階級の敵」とみなされることを恐れて帰国を選ばなかった。

 

この第三波ポーランド移民の正確な規模を把握するのは困難である。その理由は、新たに到着した者たちの特殊な状況に起因する。多くの人々は占領下のポーランドに身分証明書を残してきたり、戦争の混乱の中でそれらを失ったりしていた。そのため、正式なポーランドの身分証を所持していなかった。彼らの多くは、イギリス当局や、1946年に国連によって設立された国際難民機関(Organización Internacional para los Refugiados:OIR)が発行した一時的な証明書しか持っていなかった。このような状況下で、アルゼンチン当局はしばしば船長が提出した乗客名簿に基づいて彼らを登録していたが、それが実際の国籍を正確に反映しているとは限らなかった。

なお、戦後数十年の間に、第三波の移民の多くがアルゼンチンを離れ、ポーランドへ帰国することを決めている。このグループには、ポーランドの芸能界で活動していたイェジ・ペテルスブルスキ(Jerzy Petersburski)やカジミェシュ・クルコフスキ(Kazimierz Krukowski)も含まれる。また、戦後移民の典型的な代表とはいえないが、作家ヴィトルト・ゴンブロヴィチ(Witold Gombrowicz)は1939年の戦争勃発を機にアルゼンチンに留まり、1963年にヨーロッパへ移った。さらに、1960年代の経済危機の影響を受け、約2,000人のポーランド移民がアルゼンチンを離れ、アメリカ合衆国、カナダ、オーストラリアなどへ移住した。

 

ポーランドのユダヤ人が経験した主要な出来事と戦後の状況:

1. ナチス・ドイツの占領とホロコースト

  • ゲットー化
    ナチス・ドイツは1939年にポーランドに侵攻し、占領した後、ユダヤ人を都市の特定区域、いわゆるゲットーに強制的に隔離した。コンクリートの高い壁で四方を囲まれた区域でユダヤの人々がドイツ軍から配給されたのは1日わずか180kcalほどの食事で、栄養失調で自然死するよう計画されていた。ワルシャワ(Warszawa)・ゲットーは最大規模で、1940年から1943年まで存在し、約40万人のユダヤ人が収容された。飢餓や劣悪な衛生状態により多くの人が亡くなった。

  • 強制収容所と絶滅キャンプ
    ポーランドに設置されたナチスの強制収容所・絶滅収容所の代表例として、アウシュヴィッツ=ビルケナウ(Auschwitz-Birkenau)、トレブリンカ(Treblinka)、ソビボル(Sobibor)などが挙げられる。これらの施設で多くのユダヤ人が殺害された。アウシュヴィッツはホロコーストで最も悪名高い絶滅収容所の一つで、100万人以上が命を奪われた。ホロコーストの中心地であったポーランドにおけるユダヤ人の人口は戦前約350万人ーー全人口の9.7%でワルシャワにおいては市民の約3割がユダヤ人ーーとされるが、その大部分がホロコーストで亡くなった。

2. 戦後のポーランドにおけるユダヤ人

  • 生存者とその帰還
    戦後、数千人のポーランド系ユダヤ人が生き残り、ヨーロッパの他地域やソビエト連邦などに避難していた。ポーランドに戻ったユダヤ人も少なくなく、戦後の社会において新たな生活を築こうと試みた。しかし、戦争後の混乱と共産主義体制下における反ユダヤ主義的な感情や攻撃は続き、ユダヤ人の生活環境は依然として厳しかった。

  • 1946年のケルツェ事件
    1946年に起きたケルツェ事件(Kielce Pogrom)は、ポーランド中部のケルツェ(Kielce)で発生した反ユダヤ人暴動であり、戦後のユダヤ人迫害を象徴する重要な出来事である。この事件では数十人のユダヤ人が殺害され、多くのユダヤ人が再びポーランドを離れて国外へ移住する決断を下した。

3. ユダヤ人の移住

  • イスラエルへの移住
    イスラエルへの移住については、1948年にイスラエル国が建国された後、多くのポーランド系ユダヤ人が移住した。彼らはイスラエル建国初期の重要な移民集団の一部を形成している。

  • アメリカやカナダへの移住
    アメリカ合衆国やカナダへの移住も多かった。これらの国々は戦後のユダヤ人難民を受け入れる主要な移住先となっていた。

4. ポーランドのユダヤ人社会の復興

戦後、ポーランドに残ったユダヤ人の数は極端に減少し、数万人にすぎなかった。しかし、ポーランドには依然としてユダヤ人コミュニティが存在し、宗教や文化的な活動は続けられていた。社会主義体制下においては、一部の政治活動が許されていたものの、1950年代から1960年代にかけてポーランド政府はユダヤ人に対する政治的抑圧を強化した。特に1956年の「反ユダヤ主義的な粛清」と呼ばれる事件が発生し、多くのユダヤ人が迫害を受けた。

5. 現代のポーランドにおけるユダヤ人

現在、ポーランドには非常に少数のユダヤ人が居住しており、主に文化的・歴史的な活動を行っている。ワルシャワやクラクフ(Kraków)などの都市にはユダヤ人の記念館や博物館が設立され、ホロコーストの記憶を保存するための取り組みが続けられている。ワルシャワには「POLINポーランド・ユダヤ人歴史博物館」「ワルシャワ蜂起博物館」、クラクフには、大王の名を冠したユダヤ人街「カジミエシュ地区」、シナゴーグ、ユダヤ人の家屋を改装した洒落たホテルやカフェ、ショップなどもある。ワルシャワ郊外のカピノス国立公園は第二次世界大戦中に約1,700人の知識人が虐殺されて埋められた場所であり、そこには「パルミリ・メモリアルミュージアム」がある。この場所でナチス・ドイツが処刑した人々の大多数はポーランド人であったが、ユダヤ人であった知識人・活動家・政治家も含まれていた。また現在、ポーランド国内ではユダヤ人の歴史を学ぶ機会が増加しており、ユダヤ文化の理解を深めるための活動も活発になっている。

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参考文献:

1. La tercera ola de inmigración polaca 1946-1950
2. Héroes cotidianos: inmigrantes polacos en Argentina
3. Memórias do século 20: da Polônia à Argentina, o holocausto por testemunha
4. La verdad que no debe morir
5. La inmigración polaca en la Argentina de entreguerras
6. #What’s ポーランド? ポーランドのなかのユダヤ人 アウシュヴィッツ強制収容所がポーランドにつくられた理由とは?
7. ピエロギから巡る、ポーランドのおもてなしの心<前編>

 

作品情報:

名前:  家へ帰ろう(El último traje)
監督:  Pablo Solarz
脚本:  Pablo Solarz
制作国: アルゼンチン、スペイン(ポーランドも共同参加)
製作会社:Zampa Audiovisual, Tornasol Films, Hernández y Fernández PC, Rescate Producciones AIE, Haddock Films, Patagonik Film Group
時間:  86 分
ジャンル:ドラマ / フィクション(ロードムービー)
 ※日本語字幕あり

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