(Photo:Raphael GAILLARDE / Gamma-Rapho / Getty Images)
「アフリカのピノチェト(Pinochet)」とあだ名されたチャドの元大統領ヒッセーヌ・ハブレ(Hissène Habré)は、何十年にもわたり恐怖と抑圧の象徴であった。しかし、彼が政権を追われた26年後の2016年5月、彼の名前は国際的正義の象徴にもなった。彼は他国の法廷で人権侵害の罪により有罪判決を受けた初の元国家元首となったからである。
その厳しい追及を担ったのが、複数のメディアで「独裁者ハンター」と呼ばれる米国の弁護士リード・ブロディ(Reed Brody)である。彼はハブレによる被害者たちの権利を守るため、複雑で時に挫折もあった長い法廷闘争を率いた。ハブレは1982年、旧フランス領チャド(チャド共和国)で政権を掌握した人物である。
ブロディは、2025年5月にスペイン語で初版が刊行された著書『独裁者を捕まえる(Atrapar a un Dictador)』の中で、この長い裁判の過程や、1998年にロンドンで起きたチリのアウグスト・ピノチェト(Augusto Pinochet)逮捕の際に適用された国際法の原則を本件にも応用した経緯など、未公開の詳細を明かしている。
弁護士のブロディは、ピノチェトの事件にも関与しており、人権擁護団体ヒューマン・ライツ・ウォッチ(Human Rights Watch)による被害者支援の取り組みを指揮した。「ピノチェトの事件は、ヒッセーヌ・ハブレを刑務所に送るために不可欠だった。それは、世界中の抑圧体制下にある活動家や被害者たちにとっての目覚めでもあった」と、ブロディはBBC Mundoのインタビューで語っている。
農村の暮らしから権力の座へ
ヒッセーヌ・ハブレは、1982年から1990年にかけてチャドの大統領を務めた。
1942年、チャド北部の広大な砂漠地帯にある都市ファヤ・ラルジョー(Faya-Largeau)で、牧畜民の家庭に生まれた。彼の幼少期からは、将来大統領宮殿に住むことになるとは想像もできなかった。ブロディによると、彼の運命が変わり始めたのは政治学を学ぶためにパリへ留学した時である。ブロディによると「パリで彼は革命思想に染まっていった」。
「彼はチェ・ゲバラ(Che Guevara)の人物像に魅了され、自分自身を“民衆を解放する者”と見なしていた」「この点において、ハブレはピノチェトとは大きく異なる。ピノチェトは伝統主義を重んじるカトリック教徒で、右派に近い人物だった」とブロディは語っている。
砂漠の傭兵から国家元首へ
1971年、29歳の時、ハブレはチャドに帰国し、砂漠地帯で民兵組織を立ち上げた。この組織は急速に数百人規模の強力な軍隊へと成長していった。彼の部隊が国際的に知られるようになったのは、1974年に3人のヨーロッパ人を拉致した事件によるものであった。その中にはフランス人女性考古学者フランソワーズ・クローストル(Françoise Claustre)も含まれていた。
目的は身代金との人質交換であった。3人のうち1人は金銭によって解放され、もう1人は脱走したが、クローストルは30か月以上拘束されていた。最終的に彼女は解放されたものの、この事件によってハブレは「無視できない勢力」として世界に認識されるようになったと、ブロディは著書に記している。
権力への階段
1978年、当時のチャド大統領フェリックス・マルム(Félix Malloum)将軍は、ハブレを首相に任命したのである。当時のチャドは不安定であり、隣国リビアのムアマル・カダフィ(Muamar Gaddafi)大佐がチャド北部への侵攻を繰り返していた。
マルムの後任にはグクニ・ウェデイ(Goukouni Oueddei)が大統領に就任し、その際ハブレは国防相に登用されている。しかし、ハブレはリビアの影響力に強い不満を持ち、最終的にウェデイに反旗を翻した。この動きによって、フランスおよびアメリカの支援を獲得し、1982年6月にクーデターを起こして政権を掌握し、大統領の座に就いた。
「彼は“反帝国主義”などと革命的なスローガンを声高に叫んでいたが、実際にはワシントンの支援をためらいなく受け入れた。米国にとって重要だったのは、ハブレがカダフィに対する牽制役となることだけだったのだ」とブロディは語っている。「その点で、彼はピノチェトと似ている。どちらも、その人物像というよりは、米国にとっての“敵”に対する対抗勢力であるという点で、権力の座についたのである」と彼は続けた。
支援と弾圧
ブロディによれば、もう一つピノチェトとハブレに共通する明白な点は、両者の政権下で敷かれた厳しい弾圧体制である。秘密警察や情報機関の創設と運用が、それを象徴しているのである。「二人とも頭の切れる人物で、国民の多数から支持を得ていないことを理解していた。だからこそ、政権を維持するためには必要な層を取り込む術を心得ていたのだ」と弁護士は述べている。
「ハブレは大統領の座に就くとすぐに、軍服を脱ぎ、白い長衣(ブーブー)に身を包んだ。そして一党独裁体制を敷き、野党を非合法化し、自らへの個人崇拝を推し進めた」とブロディは著書に記している。同時に、「文書および保安局(Direction de la Documentation et de la Sécurité:DDS)」という情報機関を創設した。この機関は、弾圧と人権侵害の中心的役割を果たした組織であり、幹部たちはハブレに直接報告していた。
国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウォッチが実施した714ページに及ぶ調査報告書によれば、リード・ブロディが関与していたこの組織は、ヒッセン・ハブレが政治的殺人や組織的な拷問、数千件に及ぶ恣意的な逮捕に責任を負っていた。「彼は政府への脅威と見なした指導者が現れた際には、民間人やさまざまな民族集団を周期的に攻撃し、大量殺害や無差別逮捕を行った」と、ヒューマン・ライツ・ウォッチの報告書には書いてある。
ブロディの著書『独裁者を捕まえる(Atrapar a un Dictador)』の一節によれば、「囚人に対する尋問では、拷問は例外ではなく常態であった」。「最も頻繁に用いられた手法の一つが、悪名高い『アルバタチャル(arbatachar)』である。この方法では、囚人の四肢を背後で縛り、血流を遮断することで、しばしば永久的な麻痺を引き起こした。他にも、囚人の頭を鉄板の上に置いて押しつぶす、電気ショックを与える、水責めによる窒息拷問を行うなどの手法が取られていた」。
ハブレが政権を追われた後にチャドで設立された調査委員会は、彼の8年間の統治期間中に約4万人が政治的理由で殺害され、20万人が拷問を受けたと結論づけている。それにもかかわらず、ハブレには根強い支持者が存在していた。時とともにその支持は弱まりつつも、核となる支持層は消えることがなかった。
ブロディはチャドを訪れた際、ハブレ支持者の集団に怒号とともに追い出された経験を振り返る。これは、たとえ政権を追われ、数々の告発が明らかになった後であっても、彼がなお一部の人々から支持を受けていた証拠であると述べている。
次は誰か?
1990年、ヒッセン・ハブレはリビアの支援を受けた反政府勢力により政権を追われた。彼らは軍人イドリス・デビ(Idriss Déby)率いる勢力であった。ハブレは西アフリカのセネガルへと逃亡し、そこで長年にわたり平穏な生活を送っていた。だが、その平穏は1998年10月、ロンドンでアウグスト・ピノチェトが逮捕された出来事をきっかけに徐々に揺らぎ始めた。「その時から、同僚たちと共に世界中の独裁者や暴君の写真を集め、オフィスの壁に貼った地図にそれらをピンで留めていった」とリード・ブロディは語る。
「我々の問いは『次は誰にするか?』であった。世界中が一致して糾弾できるケースが必要だった。そして、ヒッセン・ハブレの事例がその対象となったのだ」。
ブロディによれば、そのころチャドの女性弁護士が彼を訪ねてきて、「私たちは、ピノチェトの被害者たちが成し遂げたことを、自分たちでも実現したいのだ」と語ったという。
そして、彼らの取り組みはそこから始まったのである。
ハブレがセネガルにいたという事実は、むしろ有利に働くかもしれない――そう専門家たちは考えた。というのも、セネガルは国際法を尊重する国家であることを誇っており、国際刑事裁判所(Corte Penal Internacional:CPI)に世界で最初に加盟した国でもあった、とブロディは説明する。さらに、同国は国連が設立した拷問禁止条約にも批准しており、その条約により、自国にいる拷問の容疑者を「引き渡すか、あるいは裁く」義務を負っていたのだ。
厄介な障害
しかし、当初は目覚ましい進展があったにもかかわらず、ハブレに対する判決はたびたび覆され、新たな障害が次々と立ちはだかった。正義を求める道のりは、結果として16年(2000年~2016年)にも及ぶこととなった。
その間、リード・ブロディは複数回チャドを訪問している。2001年のある訪問では、ハブレ政権下で使われていた拘束施設「ラ・ピシーナ(La Piscina)」を訪れる機会を得た。そこで彼が目にしたのは、床一面に散乱した何百もの文書であった。それらは拘束者の記録、囚人のリスト、死亡証明書、尋問やスパイ活動の報告書など、調査にとって非常に価値のある情報を含んでいた。「我々はすぐに、これはまさに“金鉱”だと確信し」「この瞬間から、誰もこの事件の深刻さを疑うことはできなくなった」とブロディは述べている。しかし、それほど決定的な証拠があっても、ハブレが裁かれるまでの道のりはまだ遠かった。彼を起訴するための障害は、次から次へと現れ続けたのだ。
リード・ブロディにとって、最も打ちのめされた瞬間の一つは2010年であった。この年、西アフリカ諸国経済共同体(Tribunal de Justicia de la Comunidad Económica de los Estados de África Occidenta:ECOWAS)の司法裁判所が、セネガルはハブレを「特別国際法廷」でのみ裁くことができるとする判決を下したのである。「あの決定は、明らかに彼(ハブレ)を守るためのものであった。あの時はもう、彼を裁くことは永遠に不可能になるのではないかと思った」とブロディは語っている。「しかし、最終的にはあれは我々にとって“隠れた贈り物”だった」と彼は打ち明ける。というのも、その判決のおかげで、(少なくとも理論上は)訴追が容易になる“特別設計された法廷”を設けることができたからである。
残る障害:セネガル政府
その課題が解決された後も、最大の障害が一つ残っていた。それは、セネガル政府そのものであった。「当時の大統領アブドゥライ・ワッド(Abdoulaye Wade)と私は4回面会したが、彼はハブレの友人というわけではなかったし、彼が犯罪者であることも理解していた。だが、彼は非常に強い圧力を受けていた」とブロディはBBC Mundoに語っている。「一つには、ハブレと深い関係を築いていた宗教指導者たちからの圧力があった。また、他のアフリカ諸国の国家元首たちからの圧力もあり、『仲間の元首を裁く』ということに理解を示さないだろうという懸念もあった」とブロディは説明する。
「こうして我々は、12年間もの間、ワッドと“ネコとネズミの追いかけっこ”をする羽目になった。だが2012年、ついにワッドが大統領選で敗北したことにより、ようやくこの事件が前進を始めたのだ」と彼は述べている。
そして2013年6月、ハブレは警察の身柄に拘束された。その翌月、7月20日に裁判が開始された。
「ついに彼は、しかるべき場所——すなわち、被告席と国際刑事法廷の前に立つことになったのだ」と、ブロディは著書の中で述べている。
完全勝利
裁判は約3年間にわたり、2016年5月にハブレにとって壊滅的な判決が下された。人道に対する罪、戦争犯罪、拷問(強姦および性的奴隷化を含む)により、終身刑を言い渡されたのである。「私は長い間、この事件の重圧に取り憑かれたように生きてきた。だから判決の瞬間は、ある種の解放であり、安堵でもあった」「我々はやり遂げた。完全なる勝利だった。喜びは言葉にできないほどだった」とリード・ブロディは述べている。
被害者たちと弁護士団による祝福は非常に盛大で、その最中にハブレが拳を掲げて法廷を後にする姿には誰も気づかなかった。その後、ブロディが彼の姿を見ることはなかった。
L’ex-dictateur #tchadien Hissène #Habré est décédé à Dakar, où il purgeait une peine de prison à vie, suite à sa condamnation historique en 2016. Les victimes survivantes devraient enfin obtenir les réparations promises, selon @ilariallegro. https://t.co/k9W0wakmWp #UA @ReedBrody pic.twitter.com/J5yscwaRPk
— HRW en français (@hrw_fr) August 24, 2021
ヒッセン・ハブレはその後も収監され続け、2021年8月、セネガルの首都ダカールの病院で新型コロナウイルスにより死去した。この結末は、多くの罪に問われ起訴されたにもかかわらず、ハブレのように有罪判決を受けることのなかったアウグスト・ピノチェトとは異なる。
「しかしピノチェトも、望んだ形で人生を終えたわけではなかった」とブロディは言う。「彼は正義に追われ、信用を失ったまま死んだのだ」と、彼は締めくくった。
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