(Photo:Moses and Frances Asch Collection)
米国のシンガーソングライターであり、公民権運動に生涯を捧げたバーバラ・デイン(Barbara Dane)が、カリフォルニア州オークランドの自宅で死去した。享年97歳であった。
音楽と同様に社会変革にも情熱を注いだデインは、アメリカ音楽史において特異で刺激的な存在である。豊かで木質的なコントラルト(低音域の女性歌声)を持ち、多様なジャンルで確固たる名声を築いた彼女は、共産主義への傾倒、社会正義獲得に向けた運動、反戦活動への積極的な関与により、批評家から高く評価される一方で、連邦捜査局(FBI)には監視対象として記録されてきた。
音楽シーンでは多くの人々と共演を果たしてきた。例えばルイ・アームストロング(Louis Armstrong)、メンフィス・スリム(Memphis Slim)、ボブ・ディラン(Bob Dylan)らとの共演は有名である。1958年には、アームストロングがテレビ番組「タイメックス・オールスター・ジャズ・ショー(Timex All-Star Jazz Show)」で彼女を紹介し、キャリアの転機となった。『タイム(Time)』誌では、「あの女を見たか? 彼女は最高だ(She’s a gasser!)」と称賛されている。ジャズ評論家のレナード・フェザー(Leonard Feather)は、彼女を「ステレオのベッシー・スミス(Bessie Smith in stereo)」と評価した。デインはジャズ、ブルース、フォークを歌ったが、ジャンルに分類されることを拒み、自らを「民衆の歌手」と称していた。
娘のニーナ・メネンデス(Nina Menendez)によれば、デインは長年にわたり心不全による呼吸困難に苦しんでいたが、最終的にカリフォルニア州の「終末期選択法(End of Life Option Act)」に基づき、2024年10月20日に自ら命を終える選択をしたという。
デインはミシガン州デトロイト(Detroit, Michigan)で生まれ育った。薬剤師である父のもと、三人兄弟の長女として育てられた。9歳のとき、父の経営する薬局で黒人男性にソーダを提供したところ、父から公然と非難を受けた。その際、自分と客の両方が侮辱された体験が、彼女を生涯にわたる人種差別との闘いへと駆り立てた。
10代の頃には共産主義思想に傾倒し、フォークソングの歌唱を始めた。その後、女性ブルース歌手たちの率直かつ感情豊かな表現に魅了され、ブルースにも深く関わるようになった。音楽業界における性差別にも直面したが、若い頃から理不尽な要求を拒み、自らの意見をはっきりと述べる姿勢を貫いた。
人種隔離政策が続いていた時代において、デインは黒人音楽家たちと積極的に共演し、ともに公民権運動を支援した。チャインバーズ・ブラザーズ(The Chambers Brothers)とともに「自由の歌」を歌い、社会運動の現場でも歌声を響かせた。「チェンバース・ブラザーズは素晴らしい才能を持っていた」と彼女は回想し、チェンバース・ブラザーズはデインのおかげでその素質を多くの人に知ってもらえることができたと述べている。「ロサンゼルスで出会った頃、彼ら(チャインバーズ・ブラザーズ)をミシシッピでの公民権活動に誘ったけれど、地元出身である彼らは戻ることを拒んだ。それは賢明な判断だったと思う」と語った。
フォークやブルースの世界では、デインは人種・性別の壁を打ち破った存在として知られ、妥協を許さない姿勢で広く敬愛された。「彼女は常に、私にとって音楽的にも政治的にもロールモデルであり、ヒーローだった」と、シンガーソングライターのボニー・レイット(Bonnie Raitt)は述べている。
2022年に出版されたデインの自伝『鐘は今も鳴り響く:反抗と歌の人生(This Bell Still Rings: My Life of Defiance and Song)』の表紙には、ボブ・ディランの推薦文が掲載されている。そこには、「バーバラは、自分の良心に従う覚悟を持つ人物だ。もしこの言葉を使わなければならないなら、彼女はヒーローである」と記されている。「ボブは名声を求めていたが、私はそんなものにはまったく関心がなかった」とデインは語っている。

(Photo:Erik Weber)
デインは名声や商業的成功よりも、活動家としての道を選んだ。彼女にとってソングライティングは、政治的実践の手段であった。公民権運動やベトナム反戦運動では、常にその歌声を通じて先頭に立ち、環境問題をテーマにした楽曲も制作した。そうした楽曲は、政治集会や社会運動の場で広く用いられた。
1966年6月1日に、デインはキューバを訪問した。革命直後のその島を訪れた初期のアメリカ人(アーティスト)の一人である。彼女にとってこのキューバ訪問は最も大きな転機になったと語っている。彼女はさらに、ベトナム戦争のさなかに北ベトナムでも歌声を響かせた。
この間も、デインは黒人アーティストの支援を積極的に続けていた。ブルース・ギタリストのライトニン・ホプキンス(Lightnin’ Hopkins)と録音を行ったほか、サイケデリック・ソウル・バンドのチェンバース・ブラザーズをニューポート・フォーク・フェスティバル(Newport Folk Festival)に紹介し、その才能を世に広めた。
1966年に発表されたアルバム『バーバラ・デイン・アンド・ザ・チェンバース・ブラザーズ(Barbara Dane and the Chambers Brothers)』は、白人女性と黒人男性が対等な存在として並ぶ、アメリカ音楽史上初期のアルバムジャケットの一つとされている。
彼女は10代のうちにピート・シーガー(Pete Seeger)と共演するなど、フォーク歌手としての地位を早くから確立していた。「私は、自分が生涯にわたって歌い続ける者だと分かっていた」と、2021年に『ニューヨーク・タイムズ(The New York Times)』のインタビューで語っている。「だが、その声を何のために使うかは、そのとき初めて見えてきた。『ああ、声で人々を動かすことができるんだ』と気づいたのだ」とも述べている。
バーバラ・デインは、多くの同時代の音楽仲間が名声や富を手にしていく中で、アメリカ音楽の主流から距離を置く道を選んだ。その一因は、彼女の音楽業界に対する根強い不信と軽蔑にあった。ボブ・ディランのマネージャーとして知られるアルバート・グロスマン(Albert Grossman)からは、「政治を捨てればマネジメントを引き受ける」と提案されたが、彼女はそれを断っている。
また、ヴィンテージ・ブルースやトラディショナル・ジャズを愛していた彼女は、ロックが台頭する1960年代には「時代遅れ」と見なされるようになった。本人も「自己破壊的だった」と後に認めており、1960年にキャピトル・レコード(Capitol Records)とアトランティック・レコード(Atlantic Records)から同時に契約のオファーを受けながら、結果的にブルースやジャズにおける名門であるアトランティックを選ばず、機会を逸したとされている。
また、エド・サリヴァン(Ed Sullivan)やジョニー・カーソン(Johnny Carson)といった大物司会者の人気テレビ番組に出演する機会もあったが、期待されたような成功にはつながらなかった。彼女の政治的信念は、テレビ番組『フーテナニー(Hootenanny)』からのブラックリスト化を招いた。さらには、1959年、ルイ・アームストロング、サニー・テリー(Sonny Terry)、ブラウニー・マギー(Brownie McGhee)らとともに参加するつもりでいた国務省主催の「親善ツアー」からも外された。その理由について彼女は、自身の人種に関する挑発的な見解が影響したのだろうと考えていた。「私は迎合せず、つるまず、お世辞も言わなかった。それでブラックリストに載せられたのだ」。「アフリカやアジア、ヨーロッパで、金髪で声の大きな女がアメリカを公然と批判するなんて、政府が許すはずがなかった」と、彼女は後年、語っている。
1964年、いわゆる「フリーダム・サマー(Freedom Summer)」の最中、デインはミシシッピ州に赴き、黒人有権者の登録を支援する公民権活動家たちに加わった。同時期には、カリフォルニア大学バークレー校(University of California, Berkeley)のキャンパスに停車していたパトカーの上に登り、フリースピーチ運動(Free Speech Movement)の学生たちに向けて歌を捧げるという行動にも出ている。
さらに大胆な行動として、1966年には3人目の夫となったアーウィン・シルバー(Irwin Silber)とともに、革命後のキューバを訪問した。当時、アメリカ国務省はそのような渡航を禁じていたが、誰もデイン夫妻の意志を止めることはできなかった。「そんなに大ごとになるとは思わなかった」と語る彼女の元を訪れたのはフィデル・カストロ(Fidel Castro)であった。彼は、彼女の滞在するホテルに側近とともに予告なく現れ、洗濯物を干している間に政治について3時間もの対話を交わしたという。2010年、『オークランド・トリビューン(The Oakland Tribune)』の取材に対し、デインはこう振り返っている。「私が干していたのは、染められたぼろぼろの紫の下着だった。彼(フィデル)はそれを見ても一切動じず、終始紳士的だった」。
バーバラ・デインは、サンフランシスコ(San Francisco)に「シュガーヒル:ブルースの館(Sugar Hill: Home of the Blues)」という名のジャズ&ブルースクラブを開店した。そこでは、ビッグ・ママ・ソーントン(Big Mama Thornton)、ライトニン・ホプキンス(Lightnin’ Hopkins)、タンパ・レッド(Tampa Red)、ブラウニー・マギー(Brownie McGhee)、サニー・テリー(Sonny Terry)といった錚々たるブルースおよびジャズミュージシャンが演奏を行った。デインはこのクラブの経営を一手に引き受け、自らの手で運営していたが、スポンサーの意向で当初彼女が計画していた入場料なし、チャージなしの運営方針が保てなくなり、このクラブを手放した。
1970年、デインはアーウィン・シルバーと共に、独自のレーベル「パレドン・レコード(Paredon Records)」を設立した。シルバーは、時事的かつ政治的な歌を掲載することで知られたフォーク音楽誌『シング・アウト!(Sing Out!)』の編集者であり、同時にフォークウェイズ・レコード(Folkways Records)のオフィスでも働いていた。このレーベルの設立は、彼女たちが自らの作品に対するより大きなコントロールを求めた結果であった。デインもシルバーも、初期からマルクス主義者であり、時代の進行とともに急進的な社会運動を支持するようになった。「パレドン・レコード」は、世界各地のプロテスト音楽を紹介するとともに、デイン自身のアルバムも多数リリースした。1973年のアルバム『アイ・ヘイト・ザ・キャピタリスト・システム(I Hate the Capitalist System)』は、率直な社会批判を展開する名作である。収録曲「ワーキング・クラス・ウーマン(Working Class Woman)」は、鋭利なプロテストソングであり、現代の社会状況とも深く響き合う内容となっている。彼らはこのレーベルから50枚のアルバムを発表し、1991年にはレーベルがスミソニアン・フォークウェイズ(Smithsonian Folkways)に買収された。
デインは、アメリカのフォーク・リバイバルの枠にとどまることなく、ジャズやブルースといった他ジャンルでも積極的に活動した。1950年代から60年代にかけて、マディ・ウォーターズ(Muddy Waters)、ライトニン・ホプキンス(Lightnin’ Hopkins)、アール・ハインズ(Earl Hines)、そしてルイ・アームストロングといった、黒人の著名な男性ミュージシャンたちと共演した数少ない白人女性の一人でもあった。
「資本主義は、当時よりも状況を悪化させた」と彼女は語っている。「経済的不安が広がった結果、人々はトランプ(Donald Trump)や陰謀論、宗教といった“安易な答え”に頼るようになった。私はマルクス主義者として、資本主義の後には社会主義の時代が訪れるべきだと考えている。仮に私が間違っていたとしても、その頃には私はもうこの世にいないだろう。しかし、このままでは世界は持続できない。資本主義と気候変動が、取り返しのつかない危機を生み出してしまったのだ」と死の直前彼女は語っている。
バーバラ・デインは、多くの同時代の仲間よりも長命を保った。彼女は、若くして世を去った急進的芸術家たち――コメディアンのレニー・ブルース(Lenny Bruce)やフォーク歌手のフィル・オクス(Phil Ochs)――について、深い敬意と愛情を込めて振り返っている。「レニーは偽善者たちの仮面をはがすことに人生を捧げ、それによって報復を受けた。フィルは双極性障害を抱えていた。人々は彼の人生の悲劇にばかり注目するが、彼の驚異的な楽曲こそ称賛されるべきである」と語っている。
生涯にわたり情熱的な闘争を続けながらも、デインは音楽への愛を決して失わなかった。「音楽には、人々を結びつける力がある。一曲の歌によって、同じ空間にいる人々が自分たちのつながりを感じ取ることができる。そんな力を持つものは、音楽のほかには存在しない」と述べている。
他の映画作品等の情報はこちらから。
参考文献:
1. Remembering Barbara Dane, 1927-2024
2. ‘Bob Dylan was an endearing young scallywag!’ Barbara Dane, the singer who burned a path through folk, blues and activism
3. Barbara Dane, Who Fought Injustice Through Song, Dies at 97
4. Barbara Dane: The story behind the sound of protest.
5. BARBARA DANE
作品情報:
名前: 七転八起の歌手 バーバラ・デイン(The 9 Lives of Barbara Dane)
監督: Maureen Gosling
制作国: アメリカ合衆国
製作会社:Films We Like/Paredon Records 等
時間: 107 minutes
ジャンル:ドキュメンタリー/音楽/伝記
※日本語字幕あり
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