カルロス・アントニオ・バルガス・グアタトカ(Carlos Antonio Vargas Guatatoca)は、キチュア(Kichwa)出身のアマゾン先住民指導者であり、先住民族の権利擁護と伝統的領域の防衛に生涯を捧げた人物である。1958年12月1日、パスタサ県プヨ(Puyo)のウニオン・バセ(Unión Base)に生まれ、2025年6月29日に66歳で逝去した。2024年11月には脳腫瘍の一種である悪性腫瘍が発覚し、2025年2月には治療費捻出のための募金が呼びかけられていた。
バルガスは、かつて「パスタサ先住民組織(Organización de Pueblos Indígenas de la Provincia de Pastaza、略称OPIP、現Pakkiru)」の代表を務め、エクアドルにおける先住民族と国家との関係を根本から変革する原動力となった。その政治的人生は、先住民族の権利擁護と領土防衛を軸とした熾烈な闘争に彩られていた。同時に、制度的な緊張、政治的同盟関係、そして司法上の論争など、さまざまな局面を経験した。
アントニオ・バルガスは、1996年から1998年、および1999年から2001年にかけて、エクアドル先住民族連盟(Confederación de Nacionalidades Indígenas del Ecuador:CONAIE)の代表を務め、先住民運動における最も力強い声の一つとしてその地位を確立した。彼の指導力は、社会的包摂の推進、集団的権利の尊重、天然資源への公正なアクセスを求める動員において決定的な役割を果たした。
バルガスがCONAIE会長として展開した運動は、憲法上の先住民集団的権利の認定に先鞭をつけた。これにより、集団的土地権、事前・自由・十分な情報に基づく協議(consulta previa)、および多文化・多言語教育制度(educación intercultural bilingüe)の制度化が実現し、先住民族の文化的アイデンティティと自治権が法的に保障されるに至った。さらに彼は、生態系保全の観点から自然権の承認や、多民族国家(Estado Plurinacional)としての国家構造の構築を提唱し、2008年憲法に大きな影響を与えた。
彼の活動歴の中でも象徴的な瞬間の一つは、2000年1月21日に起きたものである。バルガスはこの日に、当時の大統領ハミル・マフアド(Jamil Mahuad)を打倒した先住民蜂起に積極的に関与した。その際、エクアドルでは前例のない「事実上の暫定政権」が数時間にわたり発足し、バルガス、軍人ルシオ・グティエレス(Lucio Gutiérrez)、法学者カルロス・ソロルサノ(Carlos Solórzano)による三頭政治(triunvirato)が主導する体制となった。
2002年には政治の世界に転じ、アマウタ・ハタリ独立運動(Movimiento Independiente Amauta Jatari)から大統領選に立候補した。結果は11名の候補者中最下位であったが、翌2003年にルシオ・グティエレスが大統領に就任すると、バルガスは制度的な政治の場へと歩を進めた。彼は社会福祉大臣に任命され、農村部や先住民コミュニティにおける栄養失調の解消を目的とした「アリメンタテ・エクアドル(Aliméntate Ecuador)」などの政策を推進した。
しかしながら、この政府参与は先住民運動内部で議論を呼び、「体制側への取り込み(コオプタシオン)」との批判もあった。バルガスはこれに対し、対話の道を開き、自らのコミュニティのために国家資源を引き出す手段として関与したものであると説明した。ただし、グティエレス政権との関係により、バルガスは一時的にCONAIEの草の根支持層と距離を置くこととなった。
2025年6月29日、息子のフェルナンド・バルガス(Fernando Vargas)は自身のX(旧Twitter)アカウントを通じて、父カルロス・アントニオ・バルガス・グアタトカの逝去を報告した。彼は「深い悲しみとともに、我らの愛する父カルロス・アントニオ・バルガス・グアタトカ(1958–2025)が永遠の旅路に旅立ったことをお知らせする。父は子どもたちや家族全員の愛に包まれながら安らかに旅立ち、最期の瞬間まで闘い抜いた。困難な時期に祈りと愛を寄せてくれたすべての方々に心より感謝する」と綴った。
アントニオ・バルガスの逝去は、先住民運動の指導者であるアパウキ・カストロによって広く伝えられた。カストロはその功績を称え、「アントニオ・バルガスが旅立った。彼は歴史的な先住民指導者であり、エクアドル先住民族連盟(Conaie)の元代表で、諸民族の尊厳を守るための偉大な闘争の立役者であった」と述べた。また、労働者統一戦線(Frente Unitario de Trabajadores:FUT)会長エドウィン・ベドヤ(Edwin Bedoya)もSNS上で「先住民運動とエクアドル国民の利益のために闘ったアントニオ・バルガスに敬意を表する。彼の逝去に際し遺族の皆さまに哀悼の意を表したい。彼の旅立ちが、反逆の種を大地に植えることを願う」と哀悼の意を示した。
軍政出身の大統領ルシオ・グティエレスも、「アマゾンの英雄、アントニオ・バルガスを追悼する。1999年から2000年にかけて発生した銀行強盗被害者の救済のために命を投げ出した勇者である」と弔辞を寄せた。
先住民指導者としての軌跡
アントニオ・バルガスはフランシスコ・デ・オレジャナ国立工業高等学校(Colegio Nacional Técnico Francisco de Orellana)を卒業した。一方で、学生時代からパスタサ地域の組織運動に参加し、パスタサ先住民組織(Organización de Pueblos Indígenas de la Provincia de Pastaza、略称OPIP)と強く結びついていた。
1990年、32歳でOPIPの会長に就任したバルガスは、当時の大統領ロドリゴ・ボルハ(Rodrigo Borja)に対し、先住民の集団的土地権を正式に認めるよう直訴した。1992年には、「土地と生命のために立ち上がれ(Por la tierra, por la vida, levantémonos)」と呼ばれる、プーヨから首都キトまで約500キロに及ぶ行進を組織し、1,000人を超える先住民が参加した。この行進は国家による先住民土地権の認定を勝ち取り、100以上のコミュニティに100万ヘクタールを超える土地が帰属されるという画期的な成果を生んだ。
1995年には、先住民族の政治運動「パチャクティク(Movimiento Pachakutik)」の結成メンバーの一人となった。レオナルド・ビテリ(Leonardo Viteri)は「この運動のおかげで、現在ではアマゾン地域だけでなく全国的に先住民族を代表する議員が誕生している」と述べている。
1996年から2001年にかけて、バルガスはエクアドル先住民族連盟(CONAIE)の会長を務めた。ビテリは「彼は国家政策に対して全国規模での対話と大規模な運動をリードし、多民族国家の構築を求めて闘った」と振り返っている。
2000年1月21日、アントニオ・バルガスはマフアド大統領の退陣をもたらした国民蜂起に参加した。その後、ルシオ・グティエレス陸軍大佐および法学者カルロス・ソロルサノとともに三頭体制(triunvirato)政府を構成し、マフアド政権崩壊後には数時間ながらもエクアドル共和国大統領の地位を占めたとレオナルド・ビテリは語っている。
その後、バルガスは四期連続でサン・ハチント(San Jacinto)共同体の長を務め、パスタサ地域の地元政治にも深く根ざした活動を展開した。
また、アントニオ・バルガスはアマゾン地域における石油開発の拡大に強く反対した人物である。2024年10月に行われたGKのインタビューで、彼はOPIPがブロック10に進出した石油会社の影響で組織内が分裂していった経緯を振り返った。これらの企業は、先住民族組織や内部リーダーシップを尊重せずに直接先住民コミュニティと交渉を始めたため、パスタサ県のキチュア民族は「石油時代」に突入したと語っている。
争議と赦免
2018年、バルガスは土地取引に関連する犯罪の容疑で有罪判決を受けた。この事件は2017年から係争中であった。2021年6月、バルガスは「土地取引」容疑により逮捕され、有罪判決を受けた。懲役3年4か月の禁錮刑と罰金刑が科された。バルガス本人およびその支持者は、これを政治的迫害であると主張した。原告はテ・スライ農園(Hacienda Té Zulay)所有者であるディエリコン(Dierikon)社であった。ディエリコン社は、当時バルガスが代表を務めていたキチュア領域代表組織(Circunscripción Territorial Kichwa)と2件の土地売買契約を結んでいたが、バルガスは契約を履行しなかったとされる。判決の理由は、約2,000家族がアマゾン地方の複数のコミュニティから移住し、2010年から土地の占拠を始めたことである。これらの家族は、土地の入会金および月々の分割払いを行い、土地取得を図ったと報じられている。約905.30ヘクタールに及ぶこの土地問題は法的・社会的な争点となった。2019年3月30日には、農園所有者のスタッフによる民間立ち退きが実施され、暴力沙汰となった。住宅が焼かれ、負傷者が出たほか、ディエリコン社のマネージャーも逮捕されている。
2021年7月、司法当局はバルガスの先住民指導者としての地位を一定程度認め、国際労働機関(ILO)第169号条約(先住民族および部族民に関する条約)に基づき、刑罰の一部を彼のコミュニティ内で執行することを許可した。しかしながら、彼の拘束解除は実現せず、地域住民および先住民組織による大規模な抗議行動を招いた。その後間もなく、当時の大統領ギジェルモ・ラッソ(Guillermo Lasso)は2021年11月に恩赦を認める大統領令に署名し、バルガスは「良好な模範行動」と「集団的権利の擁護者としての役割」を理由に、モロナ・サンティアゴ県刑務所における実刑囚生活から解放された。
バルガスは、政府と先住民族組織の指導者たちが対話を開始(2021年11月12日に予定)する直前に釈放された。この恩赦決定は先住民族指導者としての彼の功績が評価された結果であった。副事務局長ファン・マヌエル・フエルテス(Juan Manuel Fuertes)によれば、政府は対話を円滑に進めるための手段としてバルガスの釈放を決めたという。一方、CONAIEは声明で、「歴史的指導者であるアントニオ・バルガスに対する恩赦は、2か月以上の要請の末に実現したものであり、人道的かつ正義の行為である。彼は違法かつ恣意的に投獄されていた」と強調した。
一方、2023年1月には、国家裁判所が、社会福祉大臣時代に担当した「アリメンタテ・エクアドル(Aliméntate Ecuador)」事業に関連して起訴されていた汚職(peculado)の容疑について、公金流用の証拠は存在しないとして無罪判決を確定させた。
エクアドル先住民運動歴40年のベテラン指導者レオナルド・ビテリは、「アントニオ・バルガスはその生涯を通じて、先住民の集団的権利擁護と伝統領域の保全、文化的アイデンティティの尊重、多民族国家の構築を追求し続けた。彼が蒔いた種は今後もエクアドルの先住民運動と国家の歩みを支える礎として生き続けるであろう」と語っている。
参考資料:
1. Fallece Antonio Vargas, histórico líder indígena: ¿Cuál es su legado?
2. Antonio Vargas, líder histórico de la Conaie, falleció este domingo 29 de junio de 2025
3. ¿Quién es Antonio Vargas y por qué se lo indultó?
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