※ネタバレ注意※
歴史映画の名匠として知られるアウグスト・タマヨ(Augusto Tamayo)監督が、今回は女性の権利と自由を訴えた先駆者を題材に映画を制作した。ジェンダー平等の理念を掲げ、歴史に名を刻んだ人物として知られるフロラ・トリスタン(Flora Tristán)は、その貢献や影響が過小評価されがちな存在である。しかし、彼女の思想と筆致は、間違いなく歴史に消えることのない足跡を残したと言える。女性の社会的役割が軽視されていた19世紀において、彼女は自らの行動と文学を通じて不正義に果敢に立ち向かった。
本作はタマヨ監督にとって12本目の長編映画であり、実在の人物をもとにしつつ、歴史とフィクションを巧みに融合させた作品である。冒頭で「トリスタンの人生に着想を得た物語」であることが明確に示されており、本作が史実の再現を目的としていないことが伝えられる。むしろ、本作はタマヨ監督の個人的な視点から描かれ、感動的な物語と、フロラ・トリスタンという象徴的存在の表現に重きが置かれている。
本作は、フロラ・トリスタンが、フランスで夫からの虐待に耐えかねて自立を求め、ペルーへ渡るという出来事から始まる。彼女はわずか17歳で工房の所有者アンドレ・シャザル(André Chazal)と結婚し、3人の子どもをもうけていた。
フロラ・トリスタンの父、マリアノ・エウセビオ・アントニオ・ホセ・デ・トリスタン・イ・モスコソ(Mariano Eusebio Antonio José de Tristán y Moscoso)は、ペルー・アレキパ出身の貴族であり、陸軍大佐としても知られていた。彼の父親であるホセ・ホアキン・デ・トリスタン・イ・カラッサ(José Joaquín de Tristán y Carassa)はアレキパの市議会の常任市長を務め、母親はマリア・メルセデス・デ・モスコソ・イ・ペレス(María Mercedes de Moscoso y Pérez)であった。マリアノは1760年12月15日に生まれ、貴族的な家柄で育った。この家族は、ペルーの植民地時代およびその後の時代において、軍事や行政において重要な役割を果たしてきたとされる。例えば、マリアノの兄であるドミンゴ・デ・トリスタン・イ・モスコソ(Domingo de Tristán y Moscoso)はモンテサ騎士団の騎士であり、フアン・ピオ・デ・トリスタン・イ・モスコソ(Juan Pío de Tristán y Moscoso)はスペイン王室軍の元帥であった。また、他にもペトロニラ・デ・トリスタン・イ・モスコソ(Petronila de Tristán y Moscoso)という姉妹がいた。
一方、フロラの母親であるアンヌ=ピエール・レイネ(Anne Pierre Laisnay)はフランスのパリの小ブルジョワジー出身で、フランス革命の混乱の中でスペインに移住した人物である。彼女はフロラが生まれる数年前にマリアノと関係を持ち、その後フロラを妊娠した。フロラが生まれた後も、アンヌ=ピエールはフランスとスペインを行き来する生活を送り続けていた。
幼少期のフロラは、贅沢な暮らしを享受していた。しかし、その経済的・社会的に恵まれた生活は、1808年(当時フロラは5歳)の父マリアノの死によって突如として終わりを迎える。マリアノの死後、フロラとアンヌ=ピエールは数年間、田舎で過ごしていたが、弟が他界した後、母とともにパリのマウベール広場近くのスラム街に移り住むこととなった。前述の通り、マリアノはフロラを法的に自らの娘として認知することはなく、両親の間に正式な婚姻の証拠となる書類も存在しなかった。この事実が、後々の財産問題の根源となる。スラム街に移住した後、フロラたちは極めて劣悪な環境で生活することとなった。
アンヌ=ピエールは、マリアノとの婚姻が正式に認められていなかったため、マリアノの遺産に対して法的権利を主張することができなかった。そのため、アレキパにあった豪華な家(バウジラールの家)は国家によって没収され、アンヌ=ピエールはフロラとともにその家から追い出されることになった。家を失った後、フロラと母親はこの頃から生活に困窮し、苦しい状況に直面することとなる。
アンヌ=ピエールはもともとフランスの小ブルジョワジー出身であり、特別な富を持っていたわけではなかった。マリアノとの関係が一時的に家族に豪華な生活をもたらしたものの、正式な婚姻関係がなかったことで、社会的地位は非常に不安定だった。未婚の女性や法的に認められない関係にある女性は当時、社会的に孤立しがちであり、アンヌ=ピエールも支援を受けられる立場にはなかった。また、フロラを育てるために必死に働くも、経済的に支えられる手段は限られており、困難な状況が続いた。
ペルーではフロラの祖母の死が迫っていた。彼女はマリアノの死後、貧困の中で苦しむ孫たちの存在を知りながらも、孫たちに救いの手を差し伸べなかったことを後悔していた。その後悔を償うため、彼女はフロラに多額の遺産を残すことを決めた。遺書にその旨を記すとともに、マリアノの弟ピオ・トリスタンに必ずフロラに遺産を渡すよう何度も告げた。
祖母の容態を知ったフロラは一方、亡くなる前に一目祖母に会いたい、また、彼女の遺産を受け取るためにペルーに渡航することを決意する。当時、パリからアメリカ大陸への航海には約5か月を要し、イスライ港に上陸後、フロラは砂漠を越えて馬でアレキパへ向かわざるを得なかった。これはあまりにも長い旅路を示すものであり、結果として、フロラと祖母の再会をかなわなかった。フロラがアレキパに到着した時にはすでに、祖母はこの世を去っており、また、祖母の遺書も破棄されていた。フロラは非嫡出子であるが故に、遺産の分配はできないと、ピオに告げられることとなる。
遺産が手に入らないことが判明した後、フロラはリマに移り、1834年7月16日、カヤオ港からイギリス・リヴァプール行きの船に乗り込んだ。フランスに帰国後、彼女は女性解放運動、労働者の権利、死刑制度廃止を訴える活動を始めた。その頃にはすでに夫との法的別居を果たし、娘アリヌ(Alina)の親権を得ていた。なお、アリヌは後に画家ポール・ゴーギャン(Paul Gauguin)の母となる人物である。一方、息子のエルネスト(Ernesto)の親権は父親に残された。
1838年9月、元夫アンドレ・シャザルは怒りと無力感からフロラを路上で銃撃し、重傷を負わせた。その後、フロラは体内に弾丸を抱えたまま生きることとなり、それが彼女の健康を蝕んでいった。この事件はメディアの注目を集めた。さらにシャザルの自娘アリヌへの性的暴行未遂容疑も発覚し、最終的に彼は20年の強制労働刑を言い渡されている。
…人類社会のさまざまな文明の水準は、女性が享受している自由の度合いに比例している…
1835年、フロラはパリにおいて初の文筆作品『外国人女性を温かく迎える必要について(Nécessité de faire un bon accueil aux femmes étrangères)』を自費出版した。1837年には、離婚の合法化を訴えるために第二作目を刊行した。1838年には、ペルーでの体験を旅行記として記した『あるパリアの遍歴(Pérégrinations d’une paria)』を出版した。本作品で彼女は、ペルーでの経験を通して、ペルーにおける高貴層の腐敗と、それに対する一般市民の無知や無関心を厳しく批判している。なお、パリアは被差別者を意味する言葉であり、フロラは自らを形容する言葉としてこれを使っている。フロラには「二重の非嫡出性」があったからである。離婚が合法でないフランスでは、夫と別居して家庭を離れた女性は法的に追及を受ける身であり、また彼女自身も非嫡出子であったことから、法的にも社会的にも正統な地位を得ることができなかったからである。
フロラ・トリスタンの著作は、単なる文学作品にとどまらず、彼女自身が目撃した社会の不平等に対する強い批判と、労働者階級や女性の解放に対する深い洞察を含んでいる。彼女は、労働者階級と女性が共に闘うことが社会変革の鍵であると考えた。特に、女性の解放と労働者の解放は切り離せないとし、社会的な不平等に対する鋭い批判を展開した。彼女の思想は、後の社会主義運動やフェミニズムに多大な影響を与え、彼女の著作は今日でもその重要性を失っていない。以下が主な作品である:
『メフィス(Méphis)』
フロラは社会的に疎外され、圧迫される人々の視点から本作を描いた。ここでも彼女はお得意の「パリア(被差別者)」の立場を強調している。この小説は当時の社会的背景を反映している。『メフィス』は、フロラの社会に対する批判的な視点が色濃く表れた作品であり、彼女の社会主義思想の一端を垣間見ることができる。
『シモン・ボリバル書簡集(Lettres de Simón Bolívar)』
1839年、フロラ・トリスタンは南米解放の英雄シモン・ボリバルの書簡を選定し、フランス語に翻訳した書籍を発表した。ボリバルはフロラの父親と親交があり、フロラ自身もボリバルとの関係を大切にしていた。この書簡集は、ボリバルの思想や彼が抱えていた南米解放の理想をフランス語圏に紹介したものであり、彼女の政治的背景や関心を示すものとなった。
『ロンドン散策(Promenades dans Londres)』
1840年に発表された『ロンドン散策』は、フロラがイギリスで過ごした経験を基にした著作である。この作品では、ロンドンにおける貧困や労働者の過酷な状況が描かれ、特に女性労働者の苦しみが強調されている。フロラは、イギリスの産業革命によって生まれた貧困層の現実に深い関心を寄せ、その社会的格差を鋭く批判した。この本は、彼女が労働者階級、特に女性労働者の状況に対してどれほど深い洞察を持っていたかを示している。
『労働者の連合(L’Union Ouvrière)』
1843年に発表された『労働者の連合』は、フロラ・トリスタンの代表作であり、彼女の社会主義的理論を体系的に展開した重要な著作である。この作品でフロラは、労働者階級の団結の必要性と「普遍的な団結」の重要性を訴えている。彼女はまた、労働者の解放は女性の解放と密接に関係していると主張し、社会変革における女性の役割を強調した。この考え方は、後の社会主義運動やフェミニズムに大きな影響を与えることとなった。
『女性の解放、もしくはパリアの遺言(L’Émancipation de la Femme ou Le Testament de la Paria)』
フロラ・トリスタンが没後に出版された本作は、彼女の女性解放に関する思想を集約した未刊の遺作である。この著作では、女性が社会的に抑圧されている現状を批判し、その解放の必要性が説かれている。フロラは、自身のパリアとしての立場をいかして、社会的な不平等に対する鋭い批判を行い、女性解放が社会変革に不可欠であると強調した。
フロラは、社会主義と労働者階級の闘争を語った最初の女性となった。カール・マルクス(Karl Marx)は彼女を「高邁な理想の先駆者」と評価し、彼の蔵書には彼女の著作も含まれていた。フリードリヒ・エンゲルス(Friedrich Engels)の単独執筆による第4章『神聖家族(La Sainte Famille)』では、共産主義フェミニストであるフロラへの擁護もなされている。
彼女はフランス国内を巡る遊説の最中、チフスにより41歳で亡くなった。彼女の健康状態については、『フランス一周旅行(Tour de France)』の随所に言及があり、他の病状が進行していた可能性も否定できない。
タマヨ監督は、常に教科書に描かれるような古き良きクラシックなペルー、すなわち現代ペルーの基盤を築いた時代の姿を描くことに関心を抱いてきた。近年では、その作品の焦点を女性の視点に移している。前作はイサベル・フロレス・デ・オリバ(Isabel Flores María de Oliva)、すなわち聖ローサの生涯を取り上げた『ミスティカ・ロサ(Rosa Mística)』である。このような視点は、社会の多くの分野で女性の存在が未だに無視・軽視されがちである現状を踏まえると、非常に意義深いものと言える。
ディエゴ・ベルティの遺作
『フロラの遺産』は、ディエゴ・ベルティが歴史上の人物を演じた3本目の作品であり、同時に彼の遺作である。本作でベルティは単に俳優として優れた演技力を発揮しただけでなく、作品の細部にまで深く関与していた。プロデューサーのナタリー・ヘンドリックス(Nathalie Hendrickx)によれば、「彼の献身、規律、そして風格は、この映画にしっかりと刻まれている」という。とりわけ、若き日のシャブリエと成熟した後年の姿という二つの時代を演じ分けるにあたりがさすがだったという。
彼は衣装や小道具に細かなこだわりを見せた。たとえば、劇中で使用されたスカーフは彼の父親のものであり、フロラと初めて出会うシーンで着ている大きなジャケットも、若き日の父がロンドンで購入したものであるという。彼自身や父の旅の思い出の品々を持参し、それらを役づくりに取り入れる姿勢は、俳優としての深い敬意と情熱を示している。衣装チームとの協働のもと、そうした品々がキャラクターにリアリティを与えている。
『フロラの遺産』の制作には5年という歳月がかかっている。パンデミックの影響に加え、主要スタッフやキャストの人生にも様々な出来事があった。主演のパロマ・イェロビ(Paloma Yerovi)は撮影期間中に出産を経験し、ヘンドリックス自身も母となった。監督のアウグスト・タマヨは大手術を受けたが無事に回復し、そしてディエゴ・ベルティは旅立った。ヘンドリックスは「この映画には、スクリーンの裏側にまで深く刻まれた感情が込められている」と語り、涙ながらにその年月の重みを振り返った。
撮影の最後は2022年5月であり、一方ヘンドリックスはベルティとは亡くなる3~4日前まで映画の音声吹替について調整をしていたという。撮影地の環境音が時代設定にそぐわないため、一部の音声を後から吹き替える必要があったからである。訃報を受け、作業はいったん中断されたが、ベルティの声を残すべく、非常に繊細かつ長期にわたる作業の末、音声のクリアな編集に成功した。
ディエゴ・ベルティは、仕事に対して常に真剣で、全力で取り組む俳優であった。時代劇への復帰をとても喜び、彼の存在が作品に与えた威厳と説得力は大きい。品格のある立ち居振る舞い、深い教養、自然な話し方――それらすべてが彼の人物造形を支え、映画全体に厚みを与えている。
ペルーの人気歌手でもあったディエゴ・ベルティは2022年8月5日にリマの自宅ビルから転落し54歳でこの世をさった。ベルティはミラフローレス地区の自宅から消防隊により搬送され、リマのカシミロ・ウジョア病院に午前4時10分に到着した。同病院によれば、「両脚に複数の骨折を負い、車と壁の間で発見された」という。消防隊のマリオ・カサレット(Mario Casaretto)司令官は、「集合住宅の管理人が落下音を聞いて緊急通報した」と述べている。
本作はディエゴ・ベルティの、スクリーンに映し出される最後の姿である。なお、彼は生前に出演した『Soltera, casada, viuda, divorciada(独身、既婚、未亡人、離婚)』において、最終シーンの撮影を終えることが叶わなかった。
『フロラの遺産』は、単なる伝記映画にとどまらず、制作に携わった人々の人生が交錯した、深い感情を湛えた作品である。そして、ディエゴ・ベルティの魂が確かに刻まれた、かけがえのない映画となった。
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参考資料:
1. Diego Bertie: muere el popular actor y cantante peruano tras caer de un edificio en Lima
2. “No estaba planeado, fue un accidente suicida”: Diego Bertie habló de cómo luchó por reponerse de la trágica muerte de su padre un día de Navidad
作品情報:
名前: La herencia de Flora
監督: Augusto Tamayo San Roman
脚本: Jimena Ortiz de Zevallos
制作国: Peru
製作会社:Argos Producciones Audiovisuales
時間: 133 minutes
ジャンル:Documentary, Fiction
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