[ルデシンド・ベガのコラム] ペルーにおける政治というビジネス

以下は、ペルーの弁護士で政治家のルデシンド・ベガ・カレアソ(Rudecindo Vega Carreazo)による論考の翻訳である。彼はアレハンドロ・トレド政権下で住宅・建設・衛生大臣を務め、オジャンタ・ウマラ政権下では労働・雇用促進大臣を歴任していた。記載内容理解のために最後に言葉の定義も加えている。


政治とはビジネスであり、ペルーにおける他のあらゆるビジネスと同様に、形式的で商業主義的なもの、非公式なもの、そして違法なものとして展開されうる。政治とは、政府と権力に商業的な手段で到達するための道具であり、それを通じて自己の富を増やし、自らを守り、敵を叩き潰すために利用されるのである。政治とは巨大な市場であり、ペルーにおいては国家全体を覆う「露店市(cachina)」であり、すべてをリサイクルする場でもある――使い古された者も、有罪判決を受けた者も含めて。

この極めて自由放任的な政治市場では、「レッセフェル(laissez-faire)※」がこれまでになく機能しており、形式的・非公式的・合法的・犯罪的なあらゆるビジネスが流通している。自己利益のための汚職は国家と市民の倫理を破壊し、その最も顕著な兆候である。

「政治とは善き統治の技術である」とか、「国家や国民全体の利益を中心とした統治のあり方である」といった概念的定義は、この国においては完全に無関係で、遠い存在であり、もはや古語・古物と化している。

アリストテレスは、政治を倫理の延長として捉え、ポリス(都市国家)における統治と行政の仕組みを、市民の正義と幸福のために構築するものとしたが、それは今や古生物学のような響きを持つだけだ。ペルーにおける政治とは、国家と政府を特定の団体、あるいは検察当局によれば犯罪組織によって私的に掌握されることを意味する。それは自己の利益のための支配である。

もはや「国民的利益」や「祖国のため」といった価値観は、政治という言葉の定義から消失してしまっている。

この巨大な国家的政治市場において、政党や政治団体の大半は、リーダーや創設者たちによって「代理母(vientres de alquiler)※」「選挙クラブ」「営利企業」、さらには「犯罪組織」と化している。彼らは公共の原則には従わず、指導者たちの隠れた利権や営利的利益のみに従属しており、政治選挙法も彼らの都合の良いように改変されてきた。

 

これらを伝統的な政治のルールで判断するのは誤りである。我々は、むしろ形式的・非公式的・犯罪的市場のルールによって彼らを理解せねばならない。

モーリス・デュヴェルジェ(Maurice Duverger)による、政党とは社会的・政治的・経済的集団の代表であり、組織的な構造を通じてイデオロギーを発展させ、権力へのアクセスを主目的とするもので、大衆型または幹部型に分類されうる――という政党論は、残念ながら今や誰からも顧みられず、歴史の彼方に消えてしまったのである。

 

政治制度や政党に関する法律は、かつて政党がイデオロギー的な競争と市民代表の手段であった時代、すなわち伝統的な政党を想定して作られたものである。だが現在、これらの法律はいずれも、その本来の目的にはもはや役立たない。すべてが意図的に歪められ、政党を合法的・犯罪的ビジネスへと変容させ、自らの利益のために政府を掌握する道具と化してしまった。

イデオロギーに基づく時代、つまり20世紀までのペルーでは、形式上は保守・自由主義を掲げる右派、社会主義・共産主義の左派、そして調整型の中道派(アプラ党系)という三つの潮流を語ることができた。だが、この伝統的な政治体制は、既存のどの政党にも代表されていない、むしろすべての政党に疎外されてきた層の登場によって大きく変容することになる。

1990年代には、多くの新たな政治組織が生まれた。それらの多くは、既存政党からはみ出した個人指導者たちによって作られたものであり、組織的・イデオロギー的な重みを伴わない。これらは、ドクトリン(教義)というよりもスローガンやキャッチフレーズを名称にしている。従来の三大潮流(右派・左派・中道)は拡張され、大衆化したものの、もはや明確な位置づけを持たない。さらに極右と極左という新たな極端が追加された。

近年では、ビスカラ元大統領によって推進され、その後現議会によって思うままに運用された選挙制度の歪みにより、政党市場はかつての小規模な小売市場から大規模な卸売市場へと変貌した。あらゆるものが揃い、誰にでも商品が供給される状況となっている。

ペルーにおける国家・地域レベルでの政党の分裂状況は、ギネス記録どころか、もはや国家的スキャンダルである。現在、登録済の政党は43、国家選挙管理機構(Jurado Nacional de Elecciones:JNE)に申請中の政党が30、そして地方では活動中の政党(誤って「運動」と呼ばれることもある)が約100も存在している。こうした状況において、20世紀的なイデオロギーや教義による分類はもはや通用しない。現在では、「極右」「右派」「中道右派」「中道(気体のようにあいまいで広範)」「中道左派」「左派」「極左」という、7つの大まかで実用性に欠けるカテゴリしか存在しない。これは巨大な迷宮であり、理解も脱出も困難である。それこそが、ペルー国民が直面する悲劇的ドラマである。

国家選挙、地方選挙、自治体選挙――すなわち、大統領、上院議員、下院議員、アンデス議会議員、州知事、県・市町村長などを選出する選挙は、もはや特定の社会、政治、経済層を代表するリーダー、代弁者、思索家の競争ではない。ましてや、イデオロギー的・教義的、あるいは最低限の政策論争が行われる場でもない。それはもはや、巨大な見世物化したマーケットであり、スローガンとイメージ、人物やタレントの陳列会場である。そこでは、製品の中身や質ではなく、マーケティングと広告戦略こそが重要なのだ。

この選挙という商業フェアにおいては、あらゆるものが売りに出され、あらゆることが起こりうる――忠実な競争もあれば、不正な競争もある。不良品も優良品も、新品も中古品もリサイクル品もある。クリーンな取引もあれば、あいまいな、さらには犯罪的な操作もある。選挙とは、わが国の政治、政治家、政党の鏡であり、まさに安物商人たちの見本市なのである。それこそが我々の不幸の象徴である。

 

2026年に予定される7つの選挙は、すでに我々が苦悶と驚きの中で経験してきたものであり、「何が出品されるのか」「その質はどうなのか」「誰を、どのように選ぶべきか」が分からない、商業的見本市のようなものである。しかしながら、これは近年の政治史において最も重要な分水嶺となる。なぜなら、2026年は、国家・地域・地方のすべての権力を一挙に刷新する年であり、過去に類を見ない規模だからである。我々はすべての選択で成功するか、あるいは部分的に成功するか、もしくは一気に奈落へと転落するかの岐路に立たされている。

もちろん、候補者の顔ぶれは「同じようなもの」の繰り返しになるだろうし、「新しくて違う」とうたう候補者たちが勝利する可能性も高い。だが、「同じようなもの」の中からでも、より良い選択をすることはできるし、「本当に新しく違う者」に機会を与えることもできる。この巨大なカチナ(露店市場)と化した国家的政治市場には、選ぶに値する商品もある。まだ店頭には並んでいない者、陰に隠れている者、倉庫に眠っている者もいるのだ。この「国家的呪い」は、我々がこれまでの過ちを修正し、「誤ることは運命である」という致命的な習慣を断ち切る絶好の機会ともなりうる。もし政治が市場であり、政党が構築されたビジネスであり、選挙が商業フェアであるならば――候補者たちは間違いなく、すべての嗜好に応える饗宴の主役となるであろう。

我々は、あらゆるものに直面することになるだろう。あらゆる傾向と政党が、例外なく良し悪しを問わず、候補を売り込んでくるであろう――経験豊かな者も、そうでない者も、専門家も素人も、誠実な者も前科者や犯罪者も、清廉な者も腐敗した者も含めてである。この饗宴、この安売り市、この国家的な政治市場の中で、我々に課されているのは、良識と祖国への誇りをもって行動することである。すなわち、「腐敗した者や犯罪者を捨てる(BOTAR)」こと、そして自らの信条に従い、ペルーを思って投票(VOTAR)することである。


– レッセフェルは、フランス語で「なすにまかせよ」という意味。経済学用語としては、政府の干渉を最小限に抑え、市場や個人の自由な経済活動を尊重する自由放任主義を指す。

– 代理母(vientres de alquiler)とはその名の通り本来は代理出産を指す言葉である。しかし政治や社会の文脈では否定的な意味合いで使われる。ここでは、政党や政治団体が、本来の理念や構造を持たずに、他人(候補者)が自分の選挙目的のために一時的に利用するだけの“器”になっている状態を指している。その他の言葉で言えば、例えば「名義貸し政党」「候補者を載せるだけの器政党」「選挙用レンタル政党」「使い捨て政党」と言ったところ。

 

参考資料:

1. El negocio político. partidos, elecciones, candidaturas

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