以下はロマリック・ゴダン(Romaric Godin)によるコラムの翻訳である。2000年からジャーナリストとして活動を開始したゴダンは、2002年にラ・トリビューン(La Tribune)のウェブ版編集部に参加、その後、市場部門に所属した。2008年から2011年まではドイツ・フランクフルトにて特派員を務めた。2011年以降はマクロ経済部門の副編集長としてヨーロッパ問題を担当し、2017年まで同職に就いていた。2017年5月よりメディアパール(Mediapart)に加わり、特にフランス経済を中心としたマクロ経済を取材・執筆している。
2025年5月30日複数の研究者によれば、ネオリベラリズム(新自由主義)は、国家の支配欲のために経済が利用される「地政経済(ジオエコノミー)」という新たな秩序へと道を譲ったという。この見解にはいくつかの早計な側面もあるが、それでも私たちの時代の出来事を理解するための助けとなる。
ドナルド・トランプ(Donald Trump)の大統領任期の最初の数か月は、次のことをはっきりと示した――世界経済秩序は、もはや2010年代のそれとは同じではない。現在進行しているのは、世界的な論理の変化であり、米国という第一の強国が、自国の成長、伝統的な同盟、依存関係さえも犠牲にして、地政学的覇権を確保しようとしているという事実である。
この新たな論理には、次第に流行語となりつつある名称がある。それが「地政経済」である。この考え方を広めたのは、2025年5月9日付の『フィナンシャル・タイムズ(Financial Times)』の社説「地政経済の新時代へようこそ」であったが、それ以前からすでに学術界では数か月にわたり議論されていた。国際通貨基金(IMF)ですら、2023年には「地政経済的断片化(fragmentación geoeconómica)」という概念を導入している。
「地政経済」という語は、1990年代にアメリカの戦略家エドワド・ルトワック(Edward Luttwak)によって提唱され、その後、フランスのパスカル・ロロ(Pascal Lorot)によって展開された。その当時の目的は、国家が外交的・軍事的手段ではなく、経済的・商業的な手段を用いる様子を分析することにあった。これは地政学(ジオポリティクス)との対比であった。しかし2020年代半ばには、この概念はより広義に解釈されるようになり、世界秩序における新たな行動様式を示すものとして発展した。
この意味を理解するには、もう少し過去にさかのぼる必要がある。2010年代の終わりまでは、支配的な秩序はネオリベラリズムであった。ブラジルの経済学者アルフレド・サアド=フィリョ(Alfredo Saad-Filho)が指摘するように、それは一つの思想体系というよりは、「資本主義の運営モード」であり、以前の運営モードであるフォード主義(大量生産・大量消費体制)の危機によって弱まった利潤率を回復させるために導入されたものである。
ネオリベラリズムの中で、国家が消滅することも、弱体化することもなかった。その役割と本質が変化したのである。国家の再分配的な役割(左手)は弱まり、規律をもたらす役割(右手)が強化された。この規律的役割は構造改革の形を取り、財や金融サービスを含む越境的市場を基盤とした経済秩序の維持と機能を保証することを目的としていた。
言い換えれば、ネオリベラリズムにおいて国家は、自らを超越する現実、すなわち国際経済に奉仕する存在であった。その国際経済は、少なくとも理論上は、新古典派経済学の大原則に基づいていた。経済的必要性は国家政策の正当化の根拠とされ、国際秩序は、経済と貿易の円滑な機能を保証する国際機関によって管理された。
私たちは皆、ネオリベラリズム時代がいかに宿命論的かつ無力感に満ちた時代であったかを知っている。マガレット・サッチャ(Margaret Thatcher)の有名な言葉「代替案はない(There is no alternative=TINA)」に象徴されるように。この代替案の不在は、国家間の相互依存性と、経済の法則(それらは準形而上的なものと見なされた)への従属によって説明された。
ネオリベラリズムの代替とは?
2008年の金融危機以降、この論理は次第に崩れ始めた。経済成長の鈍化と、債務危機からパンデミック危機までのショックの多発により、ネオリベラリズムの論理は徐々に時代遅れのものとなった。国家はこの論理から距離を置き、自国企業への直接支援、中央銀行を通じた金融市場の支援、あるいは政治的な理由に基づく他国との経済的な特別関係の構築といった形で行動し始めた。この変化が、新たな論理、すなわち「地政経済」の登場をもたらしたのである。
『フィナンシャル・タイムズ』のコラムニスト、ギリアン・テット(Gillian Tett)によれば、これは「経済が政治に取って代わられた世界」への転換であるという。言い換えれば、国家はもはや経済論理に従属せず、むしろ経済を、自らの権力を維持・確立するための手段として活用するようになった。
したがって、この問題の核心には米中間の覇権争いがあるが、それだけでなく、インド、欧州連合、ロシアなど、他の地域や国家を強化するための戦略も関わってくる。2025年1月に発表されたスタンフォード大学の3人の研究者による研究によれば、「覇権国家は、自らの経済ネットワークに属する企業や政府に対して、覇権国家の利益に沿った経済均衡を操作するためのコストのかかる行動を求めることで、その権力を行使する」。これはまさに、ドナルド・トランプが、自国の同盟国に対して攻撃を仕掛け、アメリカの支配を強化するために行ったことであり、一方的支配の論理に他ならない。
ネオリベラリズムを地政経済が代替するという理論化に最も踏み込んでいる研究者の一人が、ドイツの政治学者でありアムステルダム大学の研究員であるミラン・バビッチ(Milan Babić)である。彼は2025年5月初旬に、自らの主張を展開する書籍『Geoökonomie: Anatomie der neuen Weltordnung(地政経済:新世界秩序の解剖)』(スーアカンプ出版、ベルリン)を刊行した。
彼の立場は、英語圏で支配的となっている前述の見解とはやや異なる。ギリアン・テットが述べるような、経済政策の国家的枠組みへの単なる回帰を意味するわけではない。グローバリゼーションの段階が終わり、国家が再び台頭するというような単純な循環的展開を我々は目にしているのではない。バリュー・チェーンのグローバル化は依然として現実である。
ミラン・バビッチによれば、変化しているのは「経済的相互依存の性質」である。各国は、グローバリゼーションが勝者と敗者を生むことを今や認識しており、課題は「勝者の側」に立つことである。
したがって、ミラン・バビッチの言葉を借りれば、「グローバリゼーションは地政経済秩序の条件」であることを理解することが重要である。言い換えれば、歴史は循環するのではなく、既存の条件を変容させながら前進している。地政経済は新自由主義を超えるものであるが、それと同時に新自由主義の産物でもある。「1990年代と2000年代に築かれたインフラ、商業・投資の結びつき、そして諸機関がなければ、相互依存の利用(インストゥルメンタリゼーション)は不可能だった」と著者は要約する。
したがって、地政経済秩序は新自由主義とその失敗の産物である。そして、経済政策が国家の「安全保障および地政学的優先事項」に統合されていることによって特徴づけられるこの秩序においても、国家はときに自らよりも強力な他のアクター、たとえば多国籍企業のような存在を考慮しなければならない。これらの企業は、この権力ゲームにおける利害関係者となっている。ミラン・バビッチによれば、地政経済的支配の構築は、いまだに「矛盾と断片性を抱える進行中のプロセス」である。
とはいえ、全体的な枠組みは存在している。各国はもはや経済の論理に盲目的に従うつもりはない。その代わりに、自国の利益に奉仕する経済を構築しようとしている。
地政経済秩序の三本柱
この新たな地政経済秩序の具体的な形は何か?ミラン・バビッチは3つの中心的展開を提示している。それは、経済的相互依存の戦略化(Strategisierung)、国際秩序の断片化と地域化、そして国家権力の変容である。
第一の変化は、国際貿易におけるリカードの比較優位理論の失敗から生じる。英国の経済学者が主張したのとは反対に、貿易は必ずしもすべての国に利益をもたらすわけではない。そのため、より強大な国家は、開かれた市場の不利益を受け入れることを拒否し、安全保障と権力の名の下に「敗者になる」ことを拒むようになった。
2020年代初頭のパンデミックにより明らかになったように、特定の分野での依存は主な不利益のひとつである。この依存関係は国家安全保障の問題とみなされるようになり、そのように扱われている。これにより、ミラン・バビッチが「経済政策の安全保障化および安全保障の経済化」と呼ぶ現象が生まれる。言い換えれば、経済的依存に関する決定は、戦略的課題から独立して行うことはもはやできない。
米国のような覇権国家であれば、このような動きは、カナダのような近隣国を組み込むこと、主要港への航路を制するためグリーンランドやパナマ運河の併合を志向すること、あるいはEU、日本、メキシコのような「従順ではない」とみなす同盟国を規律化しようとする姿勢に結びついている。
より一般的に見れば、各国政府は投資を管理し、外国勢力を排除すべき戦略的分野を定義するための措置を講じている。経済は国家安全保障の一部となっており、ミラン・バビッチによれば、これはロシアに対する制裁の新たな側面、特に国際銀行間決済システムSWIFTからの排除にも表れている。金融取引はもはや政治的に中立と見なすことはできず、戦略的問題である。
この第一の変化は、第二の変化につながる。つまり、国家は自身の依存関係を確保するため、安全な影響圏を構築する必要がある。そこでは、権力国家が自らの力を維持するために必要な市場と資源を見出すことができる。この供給網の地域化こそ、国際通貨基金(IMF)がその「地政経済的断片化」指数を通じて追跡している現象である。
我々が念頭に置いているのは、もちろん中国の「一帯一路」構想である。これはインフラ政策と債務政策を通じて戦略的な経済依存のネットワークを構築するものである。一方で、ジョー・バイデン(Joe Biden)政権下のアメリカも、いわゆる「フレンドショアリング(friendshoring)」を推進しており、中国ではなくメキシコの生産にアクセスすることで、信頼できる国との連携を重視していた。また、ロシアがウクライナ侵攻に対する西側の制裁を受けて以降、中国への依存を強め、その影響圏に統合されている様子も確認できる。
これらすべては、国家が深く変容し、国家安全保障という目標を達成するために経済的選択に対して直接的な統制を行うことを厭わない体制の下で起きている。つまり、保護主義、規制、産業政策といった形での介入主義の刷新を意味している。ミラン・バビッチによれば、気候変動問題さえも、権力と影響力の武器となりつつある。中国はその好例であり、国家の投資によってわずか数年でグリーン産業のリーダーとなり、他国に対して戦略的圧力をかけている。
ミラン・バビッチが指摘するように、地政経済的国家はより介入主義的になる可能性があるが、それがより進歩的であることを意味するわけではない。むしろ、そうではないと言える。この国家は安全保障を最優先事項とする形で構築されており、民主主義的制約には無頓着である。このような現実のもと、極右の台頭は、国内の「敵」や経済権力への執着を特徴とする新たな地政経済的現実の政治的表現であるとも解釈できる。
この「地政経済」という概念は役に立つのだろうか?少なくとも、それは新自由主義が現代資本主義における支配的パラダイムとして終焉を迎えたことを認識する上で有用である。この概念は、特に大国間の直接的な対立の復活と、それにおける経済の中心的役割という近年の動向をうまく説明している。
ミラン・バビッチが展開するこの見解の興味深い点は、地政経済秩序を「持続不可能となった新自由主義の超克」として理解する枠組みを提供しているところにある。これは、グローバリゼーションが万人に恩恵をもたらしたと繰り返し主張しつつ、現在の混乱を招いたことへの反省が乏しい国際通貨基金(IMF)の研究に見られるようなナイーブな懐古主義とは対照的である。
この理解は、我々の時代における重要な現象、すなわち「旧来型の新自由主義者が、ある種の地政経済的立場へと徐々に転向しつつある」こと、すなわち政治的には「右派と極右の基本的課題における接近」を理解する助けとなる。
地政経済の問題点
しかしながら、この見解にはいくつかの問題がある。戦略的課題と経済的課題の間で優先順位が逆転したという考え方は、誤解を招くものである。ミラン・バビッチは、国家にとって成長はもはやそれ自体が目的ではなく、権力を獲得するための手段に過ぎないと説明している。このような見方は、すべての制度を資本蓄積の必要性に従属させる資本主義的論理を、国家がある種放棄したという前提を含んでいる。しかし、実際の状況はより複雑であるように思われる。
実際には、成長の限界と、新自由主義が生産性の向上による利益を分配するという約束を果たせなかったことこそが、各国政府に対して、蓄積の構造における自らの位置づけを再定義することを迫っているのである。成長というパイはもはや拡大しておらず、あるいはほんのわずかしか拡大していない。これを是正するには、国家権力を動員して、国民的あるいは地域的に制限された枠組みの中で資本蓄積を維持する必要がある。その結果、他国に対する損害を伴うことになる。
したがって、経済が後景に退いたというわけではない。フィナンシャル・タイムズの社説が主張するようなことは起きていない。むしろ、経済は依然として国家権力の中心的な動機である。ただし、その支配の様式が変化したのである。それはもはや、国家に対して自動的かつ容赦なく適用される(とはいえ実際には幻想であった)市場の法則という形ではなく、国家の権力によって「銃口を突きつける」かのようにして達成される蓄積の形を取っている。しばしば、それは少数の側近の利益のために行われる横領のような形で現れる。
新自由主義者たちが唱えた純粋かつ完全な競争が実現されず、万人の福祉も達成されなかったがゆえに、各国は論理を転換し、市場を回避した国家間競争へと舵を切っている。しかしながら、この変化の目的は、純粋に地政学的な権力を追求することではなく、自国の資本にとって十分な蓄積率を確保することにある。
これは、たとえばヤニス・バルファキス(Yanis Varoufakis)が最新の著作で犯している古典的な誤りでもある。すなわち、資本主義あるいはフィナンシャル・タイムズの言う「経済」を、競争市場に還元してしまう点である。実際には、資本主義的蓄積は多様な形態を取り、ときには市場を迂回し、回避することすらある。1839年に英国の軍艦が広州を砲撃し、インド産アヘンの中国への販売を強要したことは、戦争行為であると同時に、まさに資本主義的行動であった。
したがって、我々は間違えてはならない。地政経済的現実は、資本主義的現実である。その目標は、各国において利潤率を回復させることである。そして、アメリカ合衆国のような国において、この政策が新自由主義的成長を犠牲にする形を取るのは、それが一部の人々にとって社会的コストが大きすぎるからである。新自由主義的成長を拒否するということは、成長そのものを放棄するということではない。むしろ、それは地域または国レベルに集中した、より「質の高い」成長を構築することを意味しているのである。
実際、これは新自由主義的言説によく見られる要素の一つである。すなわち、「より強固な成長を築くためには一時的な苦痛が必要だ」という主張である。古典的な新自由主義に対する拒絶感が広がるなかで、こうした言説は一部の人々に受け入れられる可能性がある。2010年代の緊縮政策の際にも、まさに同じことが起こった。また、世界銀行(World Bank)の最近の研究では、「ヘゲモニーはマクロ経済的に好ましい形で構築され得る」と述べられている。そして先述のスタンフォード大学の研究が、地政経済的秩序は世界的な成長には悪影響を及ぼすと評価している一方で、それが覇権国家の成長には有利に働く可能性があることを示唆している。まさに、地政経済が構築されるのはこの目的のためである。
地政経済とは、新自由主義の失敗によって荒廃した資本主義の残骸にほかならない。それは、国家の庇護のもとで資本の蓄積を維持しつつ、同時に労働の世界への圧力を継続するための仕組みである。この点は、地政経済をめぐる議論ではしばしば見落とされる。新自由主義からの決別は、資本と労働の関係においてはあまり明確ではないのである。
福祉国家や社会保障制度の解体は、むしろ以前よりも強化されて続いている。ここにおいて、国家は決して庶民を守る存在ではない。依然として資本の武装した腕であり、単なるレトリックの変更を伴っているにすぎない。つまり、いまや犠牲を強いられる理由は、かつての「競争力」のためではなく、「国家の安全」や「国家の力」であるとされている。加えて、先に見たとおり、国家の権力はいまや、あらゆる反対意見を「脅威」とみなして排除する方向へと向かっている。
最後に、もう一つの重要な要素がある。それは、国家と多国籍企業との関係である。この地政経済の文脈のなかで、企業は再び国内へ回帰するのだろうか? その可能性は低いと思われる。なぜなら、市場は依然としてグローバルであり、企業が成長を求める際には、しばしば国境の外側に活路を見出さなければならないからである。
では今後、多国籍企業が自国の国家と同盟を結び、アメリカの大手テック企業のように、国家と同じ権力ゲームを繰り広げることになるのだろうか?この場合にもまた、戦略的な課題にとらわれてしまい、市場が閉鎖されていく可能性があるというリスクがつきまとう。
残されたもう一つの選択肢は、こうした資本の権力が、自律的な役割を果たすという道である。この可能性は、ドナルド・トランプの政策がこれらの企業に経済的成功を保証していないことを踏まえると、なおさら高い。
すでに見て取れるのは、ホワイトハウスの政策が直線的ではなく、ジグザグに揺れ動いているという事実である。これは、新たに浮上しつつある経済問題のためである。こうなると、「地政経済」という概念はもはや妥当性を失い、企業と政府の政治的競争そのものが、すでに新たな枠組みを形作っている。巨大企業グループの意思決定こそが、将来の国際秩序を規定する中心要素の一つとなるだろう。
要するに、「地政経済」という概念は、新自由主義の終焉を考察するための興味深い視座を提供する。ただし、それを誇張したり、資本主義の政治的超克とみなしたり、あるいは完成された枠組みとして描くべきではない。
現時点でわれわれが生きている世界の現実は、「地政経済的要素が新自由主義の持続性のなかに挿入されている」という過渡期的な状況である。われわれはまだ、新たな均衡の段階には遠く及んでいない。そして、その均衡が近い将来に到達可能なのか、あるいは今日の時点で予見可能な形で達成されるのかについても、確証はまったくない。
参考資料:
1. ¿Hemos entrado en la era de la “geoeconomía”?
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