[ホルヘ・マイフドのコラム] 古くからある腐敗の物語

(Photo:América Latina en movimiento)

ウルグアイ系米国人ホルヘ・マイフド(Jorge Majfud)のコラムの日本語訳である。マイフドは、1969年にウルグアイのタクアレンボーで生まれた。ウルグアイ共和国大学(Universidad de la República)で建築を学び、同大学を卒業した。文学活動と様々なメディアに掲載される記事の執筆に専念しており、最新の小説は『テキーラ(Tequila)』および『エル・ミスモ・フエゴ(El mismo fuego)』がである。アメリカ合衆国ジョージア州にあるジャクソンビル大学(Jacksonville University)でラテンアメリカ文学を教えている。本記事は2019年6月29日に初出されたものである。


腐敗を終わらせる手段としていかなる選択肢も正当化するという政治的な語り口は、政治と同様に、そして物語という営みと同様に古いものである。ラテンアメリカにおいては、それは古典的なジャンルであり、民衆の記憶が乏しいおかげで、これを世代から世代へと繰り返すことができている。それはまるで新しいことのように。

しかし、この物語は、特定の支配階級の権力の強化や復権にしか役立たないものであり、その関心は専ら「小規模な腐敗」に限られている。すなわち、政治家や上院議員、大統領が、巨大企業を利するために一万ドルや五十万ドルを受け取るような事例である。貧困層の人間が、月額五百ドルの年金を得るために政治家に五十万ドルを渡すというようなことは、滅多にない。

企業の利益拡大のために政治家に百万ドルを支払う者は腐敗しているし、スラム街で暮らす貧しい人間が、自分の粗末な家の屋根用に買ってもらったトタン板を理由に、その政治家に投票するのもまた腐敗である。

だが、より腐敗しているのは、野心による腐敗と、生き延びるために必死になって行う腐敗とを区別できない者である。17世紀末、支配の力に服従しなかったために抑圧されたメキシコのソル・フアナ・イネス・デ・ラ・クルス(Sor Juana Inés de la Cruz)は次のように言っていた:

¿O cuál es más de culpar, (どちらがより責められるべきか)

aunque cualquiera mal haga: (どちらも悪いことをするにしても)

la que peca por la paga (金のために罪を犯す女か)

o el que paga por pecar? (罪を犯すために金を払う男か)

 

腐敗に対する非難が、合法的な腐敗に向けられることは滅多にない。そして、民主主義がゲームのルールを尊重していることに誇りを持っていたとしても、たとえば一千万人の有権者が、政治家の選挙運動に一億ドルを寄付し、同じ候補に二人の富豪が計一千万ドル、いわばはした金を出資したとしても、それは問題とはされない。その候補者が当選した暁には、どちらのグループと夕食を共にするかなど、天才でなくとも予想はつく。

その後、その富豪たちが自国の議会において、自らのビジネスに利益をもたらす法律(減税、賃金や投資の規制緩和など)を可決させたとしても、誰も問題視しない。なぜなら、彼らは一切の法を犯す必要がないからである――自分たちで書いた法律を使えばよいのだ。まるで、何百万もの正直で無垢な市民を相手に盗みを働くのではなく、二、三人の貧しい労働者から盗むことでしか、怒りや憤り、屈辱を感じられない悪党のように。

それでもなお、我々はさらに深刻な腐敗を見出すことができる。それは、違法な腐敗よりも、合法的な腐敗よりもさらに深い。すなわち、民衆の無意識の中に宿り続けている腐敗であり、その起源は他ならぬ社会的権力の恒常的な腐敗にある。それは、一滴の水が長年、あるいは何世紀もかけて岩を穿つように、社会の奥底に染み込んでいくものである。

それは、腐敗の被害者であるはずの民衆自身の中に巣食う腐敗である。荒れた手を持つ疲れ果てた男や、大学の学位を持つ男の中に、また、目の下に隈をつくった苦労を重ねた女の中に、あるいは鼻を高く上げた別の女の中に、その腐敗は存在している。それは、彼らが夜に床に就くときも、朝に目覚めるときも、常に共にあり、家族や友人の間に、まるでインフルエンザやエボラのように伝染し、再生産されていく腐敗である。

それは、法律の裏道を使って簡単に金を受け取るような、少数の個人の腐敗にとどまらない。

いや、それは単に権力を握る者たちの腐敗ではなく、「腐敗を終わらせたい」と願う者たちの間に巣食う、見えざる腐敗である。そしてその腐敗は、証明され尽くした腐敗まみれの旧来の方法で腐敗に立ち向かおうとする者たちの挫折感から生まれた、ウイルスのようなものである。

なぜなら、腐敗とは、誰かが不正な金銭を渡したり受け取ったりすることだけを意味しないからである。国家からわずかな施しを受けているという理由で、貧しい人々を憎むこと、それもまた腐敗である。

なぜなら、腐敗とは、政治家が貧困者に食料品の詰め合わせを渡して票を買うことだけではなく、飢えたこともないような人間が、その貧しい者たちを「腐敗者」や「怠け者」と決めつけるときにも起きているからである。あたかも特権階級に「怠け者」が一人もいないかのように。

なぜなら、腐敗とは、貧しい怠け者が、政治家や国家から小銭をせしめて、粗悪なワインなどの悲惨な悪癖にふけることだけではなく(それがジェイムソン・アイリッシュ・ウィスキーでないにせよ)、支配層にある者たちが、自らの特権を「完全に純粋で、合法的で、正当な手段によって得たものだ」と思い込み、他者にもそう信じ込ませることでもあるからだ。そして、トイレ掃除をし、手鏡を買ってくれる貧者たちは、あたかも金持ちの耐えがたい犠牲の上に成り立って生きているのだと。こうした事態を終わらせられるのは、ただ一人の将軍か「強い意志を持ったビジネスマン」であるかのように信じて。

 

腐敗とは、貧しい哀れな者が、自分と同じような別の貧しい哀れな者を「罰する」と約束する候補者を支持するようなときにも起きているのである。なぜなら、その貧者にとって知っている「悪魔」は、自分と同じ通りで、バーで、職場で出会った同じような貧者たちしか存在しないからである。

なぜなら腐敗とは、ドミンゴ・サルミエント(Domingo Sarmiento)アントニオ・ハミルトン・マルチンス・モウロン(Antonio Hamilton Martins Mourão)のようなムラート(混血)の人間が、自分の家族にいる黒人たちに対して恥を抱き、他人の黒人たちには限りない憎しみを抱くときに存在するからである。

なぜなら腐敗とは、神に選ばれし者――つまり、牧師の狂信的な解釈を聖書の複雑な文脈と混同する者、毎週日曜日に教会へ行って「愛の神」に祈りを捧げ、帰り際に貧者に小銭を投げ与え、そして翌日には、ゲイ、レズビアン、トランスジェンダーといった異なる人々の「同じ権利」を否定するために街頭に繰り出すような者――にも見られるものである。そしてそれを「道徳」と「神の子イエス」の名において正当化するのだ。ああ、そのイエスこそが、そのような「異なる」「非道徳的」な人々を裁く機会を千度も持ちながら、一度たりともそれをしなかったどころか、むしろまったく逆のことをしたというのに。

なぜなら腐敗とは、「暴力を終わらせるために暴力を使う」と約束する候補者を支持することである。

なぜなら腐敗とは、19世紀以来ラテンアメリカを荒廃させてきた軍事独裁政権――あらゆる形態の腐敗を実践してきたそれら――が、いつか腐敗を終わらせることができるなどと、狂信的に信じ、繰り返すことである。

なぜなら腐敗とは、他者を憎みつつ、その一方で「他者は憎しみに囚われている」と非難することである。

なぜなら腐敗とは、社会の中でも最も誠実な個人の文化や心の奥底にさえ潜むものであるからだ。

なぜなら、最悪の腐敗とは、100万ドルを奪うことではなく、歴史の叫び声を見ようとせず、聞こうとせず、自分でも見ず、他人にも見せず、気がついたときにはもう手遅れになっている、そうした腐敗なのである。

 

参考資料:

1. El viejo cuento de la corrupción

No Comments

Leave a Comment

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

error: Content is protected !!