(Photo:Dolores Ochoa/AP)
本記事はソレダ・ブエンディア・エルドイサ(Soledad Buendía Herdoíza)のコラムの翻訳である。彼女はラファエル・コレア(Rafael Correa)政権下のエクアドルにおいて国家政治運営長官(Secretaria Nacional de Gestión de la Política)を務めた元国民議会議員である。エロイ・アルファロ民主主義研究所(Instituto para la Democracia Eloy Alfaro:IDEAL)の協力者であるとともに、女性の権利擁護活動家である。
近年、数多くの政府が治安政策として、武力の使用、警察権力の強化、特定の社会集団の犯罪化に焦点を当てた方針を推進してきた。そしてこれらの措置は、市民を守るために必要であるという主張のもとで正当化されてきた。しかし、このような言説は、安全保障と人権との間にあたかも両立し得ない対立関係があるかのような偽りのジレンマを作り出している。本稿では、こうした二項対立の構図を批判的に考察し、その含意をジェンダーの視点から分析することを提案する。特にこのような政策が、女性、若者、性的およびジェンダーの多様性を持つ人々にどのような影響を与えているかに焦点を当てる。
安全保障という概念は、例外的な政策を正当化するための覇権的な装置として用いられてきた。その名の下に、市民的自由の制限、刑罰の強化、国家による監視の拡大といった措置が導入されてきたが、それらは暴力の構造的な原因を解決するには至っていない。このようなアプローチは、結果として権威主義と抑圧の増加をもたらし、歴史的に周縁化されてきた身体や主体に対してとりわけ強く向けられてきたのである。
この種の安全保障政策は、軍事的および懲罰的な手段に焦点を当てており、人間の尊厳を包括的に保護するという人間の安全保障の観点を排除し、国家および資本の安定を優先する秩序の概念へと移行している。その結果、多くの場合、基本的人権が犠牲にされている。このような観点からは、安全保障政策がさまざまな社会集団に不平等な影響を与えている実態を可視化することが極めて重要である。
特に、軍事化や過剰な警察の存在が見られる状況下では、女性たちはより大きな保護を受けるどころか、むしろ性的暴力、虐待、スティグマ(烙印)にさらされる危険性が高まっている。領域の犯罪化は、フェミニン化された身体、民族的に差別された身体、貧困層の身体に対しても作用し、その脆弱性を強化する結果となっている。
また、特に労働者階級や貧困層に属する若者たちは「潜在的な脅威」と見なされることが多く、それによって人種プロファイリング、恣意的な拘束、強制失踪といった人権侵害が引き起こされている。同様のことが、LGBTIQ+の人々にも起きており、彼らのアイデンティティや表現が制度的暴力の標的とされることが頻繁にある。
このような「非規範的な」身体は、実際に危険をもたらす存在であるからではなく、むしろ、これらの安全保障政策が保護しようとしている父権的・シスヘテロノーマティブ(異性愛・出生時の性別規範に基づく)・資本主義的秩序を問い直す存在であるがゆえに、懲罰の優先的対象とされているのである。
このような観点に立てば、権利と安全保障の間にあるとされるジレンマは、実際には現実の二者択一ではなく、統制のメカニズムを正当化するために構築された政治的な作り物である。人権は安全保障と排他的な関係にあるのではなく、むしろすべての人々が暴力から解放され、正義、保健、教育および福祉へのアクセスを保障された状態で生きる能力を意味する「真の民主的な安全保障」の基盤である。
また、安全保障はジェンダー平等や社会的正義と切り離しては考えられない。懲罰を優先するのではなく、暴力の構造的原因——すなわち不平等、貧困、マチスモ(男尊女卑的な価値観)——に対応し、地域社会のつながりや包括的保護の仕組みを強化する公共政策を推進することが急務である。
人権か安全保障かのどちらかを選ばなければならないと主張し続けることは、排除と暴力を永続させる偽りのジレンマに陥ることにほかならない。権利なき安全保障は、脆弱であるだけでなく、根本的に不正義である。このような観点から、安全保障のパラダイムを、すべての人々、特に歴史的に周縁化されてきた人々の尊厳を認め、保障するものへと再構築する必要がある。そうして初めて、真に安全で、平等かつ民主的な社会を築くことが可能となるのである。
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