(Photo:Globovisión / flickr)
ペルー出身の小説家、マリオ・バルガス・ジョサ(Mario Vargas Llosa)は、ラテンアメリカ文学の世界的ブームを牽引した中心人物の一人である。
89歳になった人物の死は、4月13日日曜日に子どもたちであるアルバロ(Álvaro)、ゴンサロ(Gonzalo)、モルガナ(Morgana)・バルガス・ジョサにより発表された。
Con profundo dolor, hacemos público que nuestro padre, Mario Vargas Llosa, ha fallecido hoy en Lima, rodeado de su familia y en paz. @morganavll pic.twitter.com/mkFEanxEjA
— Álvaro Vargas Llosa (@AlvaroVargasLl) April 14, 2025
バルガス・ジョサは、ラテンアメリカ文学と文化の世界で圧倒的な存在感を放った人物であり、物議を醸すことを恐れない作家であった。
彼の著作は50冊を超え、多くが世界中で翻訳されている。2010年にはノーベル文学賞を受賞し、選考委員から「神に与えられた語りの才能を持つ作家」と評された。権威主義、暴力、マチスモ(男性優位主義)を描いた彼の作品は、豊かな言語とイメージで、ラテンアメリカ文学ブームを代表するものとなり、世界の注目を集めた。『都市と犬たち(La ciudad y los perros)』『カテドラルでの対話(Conversación en La Catedral)』『ヤギの饗宴(La fiesta del Chivo)』などの小説で名を馳せた。
彼の人生は、そのフィクションと同様に波乱に満ちていた。
当初は左派思想に共感していたが、ラテンアメリカの革命運動に失望し、最終的には中道右派政党から1990年のペルー大統領選に出馬して敗北した。
ガブリエル・ガルシア=マルケス(Gabriel García Márquez)との長年の確執も知られたことである。
1936年、アレキパ(Arequipa)で中流階級の家庭に生まれた。幼少期に両親が離婚し、祖父母と共にボリビアのコチャバンバで育った。10歳でペルーに戻り、15歳で犯罪記者として働き始め、16歳で戯曲『インカの逃走(La huida del Inca)』を執筆した。リマ大学を卒業後、スペインで学び、その後パリに移住した。4年後には、義理の叔母であるフリア・ウルキディ(Julia Urquidi、当時32歳)と駆け落ちし、父親からは「男らしい行動」と呼ばれた。1958年のパリ(Paris)訪問を機に、彼はマドリード(Madrid)、バルセロナ(Barcelona)、ロンドン(London)、そしてフランスの首都であるパリで16年間を過ごすことになる。しかしその間も、ジャーナリストや放送人、教師として活動しつつ、フィクションの中で故郷への回帰を始めた。
1963年に彼の処女作『都市と犬たち』がスペインで出版された。この小説は、バルガス・ジョサが10代の頃に2年間在学していたレオンシオ・プラド陸軍学校(Colegio Militar Leoncio Prado)で起きた殺人事件とその隠蔽を描いた。彼によると陸軍学校での経験は「極めてトラウマ的なものだった」。彼によると、この学校での2年間を通じて、自国を「暴力に満ち、社会的・文化的・人種的に分断された、対立に満ちた社会」として認識するようになった。当時、軍部が政治・社会的に大きな力を持っていたため、この作品は大きな波紋を呼んだ。その挑発的で威圧的な描写は、多くのペルー軍将校から非難され、ある将軍は「退廃した精神の産物」と断じた。ペルー国内では衝撃的すぎるとして、彼によれば、この学校では小説の出版後、1,000部の本がグラウンドで焼かれた。
1966年の第二作『緑の家(La casa verde)』は、ペルーの砂漠とジャングルを舞台に、売春宿を中心に集うポン引き、宣教師、兵士たちの複雑な関係を描いた実験的な作品である。
この二作によって、1960〜70年代のラテンアメリカ文学ブームの中心的作家に彼はフリオ・コルタサル(Julio Cortázar)やカルロス・フエンテス(Carlos Fuentes)、ガブリエル・ガルシア=マルケスらとともになった。このブームは、実験的で政治色の強い作品によって特徴づけられ、大陸全体の混乱を映し出す文学運動となった。バルガス・ジョサの盟友であり時にライバルでもあったコロンビアの作家ガブリエル・ガルシア=マルケスは、万華鏡のような魔術的リアリズムのスタイルを確立した。この運動の中心作家たちは世界的な名声を得て、彼らの作品は世界中で読まれるようになった。
1971年の著書『ガルシア・マルケス:神殺しの物語(García Márquez: historia de un deicidio)』では、新大陸の文学と旧大陸の文学との対話を試みたが、マルケスとの友情は長続きしなかった。
1976年、バルガス・ジョサがメキシコの映画館でガルシア=マルケスの顔を殴った事件は有名であり、それ以降数十年間、両者は口をきかなくなった。マルケスの挨拶に対し、なぜ殴ったのかについては諸説ある。マルケス側の友人たちは、当時のバルガス・ジョサの妻パトリシアとの交友が原因だったとしている。2014年にマルケスが死去した3年後、マドリードでのイベントにて、彼は「かつての友人の死を悲しく思う」と述べたが、確執の詳細には触れず、「この話はここで終わりにしよう」と語った。しかし、2017年になると、彼自身はマドリードの大学での講演で「キューバとフィデル・カストロに対する見解の相違」が原因だったと述べている。
彼の多くの作品は、20世紀後半のラテンアメリカでの政治的不安や暴力と切り離すことができない。1969年の『カテドラルでの対話』は、1948〜56年にかけてのマヌエル・オドリア(Manuel Arturo Odría)独裁政権が、一般市民の人生をいかに破壊したかを描いた傑作として評価されている。
知識人として彼もまた当初はフィデル・カストロを支持していたが、1971年、詩人エベルト・パディジャ(Heberto Padilla)がキューバ政府を批判して投獄された「パディージャ事件」により、失望を覚えた。
1983年、彼はペルー・アンデス地方の村でジャーナリスト8人が惨殺された「ウチュラカイ(Uchuraccay)事件」の調査委員会の委員長に任命された。
当局は、村人たちが彼らを毛沢東主義のゲリラ「センデロ・ルミノソ(Sendero Luminoso)」のメンバーと誤認して殺害したと主張した。バルガス・ジョサ率いる調査報告もこれを支持したが、残虐な手口や遺体の損壊状況から、政府の反テロ部隊による犯行だと信じる人々から激しい批判を浴びた。
彼の戯曲、短編、長編小説――『カテドラルでの対話』『おばさんと脚本家(La tía Julia y el escribidor)』『世界終末戦争(La guerra del fin del mundo)』など――は、彼の文学的名声を確固たるものにした。しかし、その名声が高まるにつれ、政治的関与も強まった。若い頃のマルクス主義から離れた彼は、ペルーのテレビでトーク番組を司会し、1984年には保守派大統領フェルナンド・ベラウンデ・テリ(Fernando Belaúnde Terry)から首相就任の誘いを受けるが、これを断った。
1987年には、ペルーの金融制度国有化計画に反対する集会で12万人の群衆をリマに集め、翌年に大統領選へ立候補した。だが、脅迫電話や死の脅迫が相次いだ。政治的には右派へと傾き、1990年には中道右派「民主戦線」から大統領選に出馬し新自由主義的政策を掲げたが、決選投票でアルベルト・フジモリ(Alberto Fujimori)に敗れ、数時間後に国外へと去った。
『おばさんと脚本家』は彼の最初の結婚に基づく物語で、1990年に『Tune in Tomorrow』としてハリウッド映画化された。
2002年の『ガーディアン(The Guardian)』紙の取材に対し、彼は「嘘はつかなかった。急進的な改革と社会的犠牲が必要だと訴え、それは最初うまくいった。しかし『汚い戦争』が始まり、私の改革が職を奪うものとして描かれた。それは貧困層に特に効いた。ラテンアメリカでは現実よりも約束のほうが好まれるのだ」と語っている。
1993年、彼はスペイン市民権を取得した。その後も戯曲、エッセイ、小説を精力的に発表し続け、国家によるテロや権力の乱用を文学によって告発し続けた。2000年発表の小説『ヤギの饗宴』では、ドミニカ共和国を31年支配した独裁者ラファエル・トルヒジョ(Rafael Trujillo)の精神世界に読者を引き込んだ。この作品はノーベル賞委員会からも「権力構造」や「個人の抵抗、反乱、敗北のイメージ」に焦点を当てたと称賛された。2006年の『いたずらな女(Travesuras de la niña mala)』では40年以上にわたる断続的な恋愛を描いた。
スウェーデン・アカデミーからの2010年の連絡を当初、冗談だと思いこんでいたと述べている。2012年のインタビューで、ノーベル賞は「1週間はおとぎ話、1年は悪夢だった」と述べ、取材やブックフェアへの参加の要請に追われ、執筆が困難になったことを明かしている。ノーベル賞受賞後は、ペルーのメディア操作やロシア連邦のプロパガンダ、ドナルド・トランプ(Donald Trump)に対しても批判の声を上げた。しかし、2022年5月のブラジル大統領選では、極右の前大統領ジャイル・ボルソナロ(Jair Bolsonaro)をルイス・イナシオ・ルラ・ダ・シルバ(Luiz Inácio Lula da Silva)よりも支持すると表明した。「ボルソナロの道化じみた態度はリベラルには受け入れ難い」としつつも、「ボルソナロとルラなら、もちろんボルソナロだ。彼の愚かさがあっても、ルラよりはましだ」と語っている。
「政治経験から学んだのは、私は作家であって政治家ではないということだ」と彼は2012年に語っている。「冒険的な人生を望んだのは事実だが、最高の冒険は政治よりも文学にあった」と述べている。
2023年2月、パリにてアカデミー・フランセーズ(Académie Française、フランス学士院)の会員として正式に迎えられた際、彼はフランス語で一冊も本を著していない初の会員となった。
1976年から1979年には、作家の表現の自由を擁護する国際団体「PENインターナショナル(PEN International)」の会長を務めた。2019年、カタルーニャ独立運動への反対を理由に、名誉会長職を辞任した。PENが収監された2人のカタルニャ市民社会指導者の釈放を求め、「フランコ独裁時代以来の迫害」と述べたことに異議を唱えたためである。
晩年には、アイルランドの独立運動家ロジャ・ケイスメントを描いた『ケルト人の夢(El sueño del celta)』(2012年)など、実在の人物にも関心を広げた。
後年はペルーとマドリードを行き来して過ごした。1964年に最初の妻と離婚し、従姉妹のパトリシア・ジョサ(Patricia Llosa)と再婚しアルバロ、ゴンサロ、モルガナをもうけた。しかし2015年に50年連れ添った妻と離婚した。その後、人気歌手エンリケ・イグレシアス(Enrique Iglesias)の母であるスペイン=フィリピン系の社交界人イサベル・プレイスレル(Isabel Preysler)と交際し、スペインのゴシップ誌「¡Hola!」でも話題を集めた。しかし彼女との関係も2022年に終わった。
一方で、物議を醸す発言も続いた。2019年には、メキシコで増加するジャーナリスト殺害事件について「表現の自由が広がり、以前は許されなかったことが言えるようになったことが原因だ」と発言し、批判を浴びた。「麻薬密売が中心的役割を果たしている」とも述べたが、被害者やその家族への共感に欠けるとの指摘もあった。
また2018年には、スペイン紙『エル・パイス(El País)』で「フェミニズムは文学の最大の敵だ。マチスモや偏見、不道徳を文学から取り除こうとしている」と主張し、波紋を呼んだ。
国際的な名声にもかかわらず、彼は創作をやめることはなかった。ノーベル賞受賞後も4作の小説を発表。2023年には『沈黙を君に捧ぐ(Le dedico mi silencio)』が最後の小説になるとラ・バンガルディア(La Vanguardia)紙に語った。「私は楽観主義者だが、新作に取りかかるほど長くは生きられないだろう。書き上げるのに3〜4年かかるからだ。しかし働くことはやめないし、最期まで創作を続けられる力を持ちたいと思っている」
息子のアルバロ・バルガス・ジョサによれば、2025年4月13日、リマで家族に囲まれて安らかに息を引き取った。彼の死により、ラテンアメリカ文学ブームを築いた偉大な巨匠たちは、すべてこの世を去った。
参考資料:
1. Mario Vargas Llosa, giant of Latin American literature, dies aged 89
2. Mario Vargas Llosa: Giant of Latin American literature, with a punch to match
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