ガロ・ベタンコート(Galo Betancourt)は、20年以上の経験を有する映像制作者およびコミュニケーション専門家である。公共・学術・報道の各分野で多数のプロジェクトを指揮し、エクアドル国内の大学において教鞭を執ってきた。2023年・2024年の「エウヘニオ・エスぺホ国家報道賞(Premio Nacional de Periodismo Eugenio Espejo)」制度部門を含む10以上の賞を受賞しており、映像制作と政治分析の分野で人権に根差した創造的な取り組みが高く評価されている。
ダニエル・ノボア(Daniel Noboa)の勝利に沸く陶酔のさなか、SNS「X」において、ある投稿が正直でありながらも不快な疑問を投げかけた。それを投稿したのはユーザーはアレックス・フランシスコ(Alex Francisco)である。
「ノボアが勝ってもシカリオ(殺し屋)やワクチン(強制的な犯罪予防費)の問題が続くなら、それでもまだコレアのせいなのか?… いつまで同じ話をするつもりなのか。」
この投稿は破壊的な批判ではなく、むしろ前を向き、政府と市民の双方が自らの責任をようやく引き受けるべきだという呼びかけであった。しかしながら、返ってきた反応は示唆的であった。罵倒、「もっと時間を与えるべきだ」という声、そして最も不穏だったのは、ラファエル・コレア(Rafael Correa)の永続的な責任を当然視するコメントである。
私は数日間、この「構図」がなぜこれほどまでにエクアドル国民の想像の中に根付いてしまったのかを考えてきた。私の専門はコミュニケーションであるが、この現象はまず他の視点からも考察されるべきである。
心理学の分野では、ジクムント・フロイト(Sigmund Freud)が「投影(プロジェクション)」という防衛機制を定義している。これは、人が自らの望みや罪悪感、葛藤を、認めたくないがゆえに他者に転嫁することである。危機の中では、外部の敵に問題を投影することが情緒的な安心をもたらす。すなわち、自己の責任から解放されるのである。
この個人的な過程は、集団のレベルにおいて構造化された形で現れる。フランスの歴史学者・人類学者・哲学者であるルネ・ジラル(René Girard)は、社会が自身の緊張や不満を「スケープゴート(生贄)」に向けることで、それらの象徴的あるいは現実的な暴力を一人の個体に集中させるメカニズムを解説している。
私の専門分野に戻ると、アルゼンチンの同僚で友人のマリアノ・フェレイラ(Mariano Ferreira)はこう言っていた。「政治コミュニケーションとは映画『インセプション』のプロットのようなものであり、他者の夢、いやむしろ無意識に入り込み、そこに『アイデア』を植え付けるものである」と。エクアドルにおいて「すべてはコレアのせいだ」というアイデアがいかに深く根付いているかを見つめてみれば、まさにその通りと言える。
この物語は、個人的側面(不満の投影)と集団的側面(スケープゴートの儀式的な犠牲)を見事に利用してきた。その結果、社会全体が投票すること、黙認すること、あるいは受け入れがたい現実を受け入れることにおいて、あらゆる自己責任の感覚を失ってしまっている。
ノボア政権下では、このナラティブが都合よく悪用されている。無能さや管理能力の欠如を隠すための言い訳として、あるいは注意を逸らす手段として利用されている。「マサル(Mazar)ダムで水を流したままにしたのはコレア派だから停電が起きた」「エスメラルダス(Esmeraldas)での石油流出はコレア派の破壊工作だ」「メキシコから選挙敗北者たちが暗殺計画を企てている」など、証拠なきまま語られるが、「フレーム(枠組み)」としてすでに国民の中に埋め込まれているため、効果を発揮してしまう。
「コレアのせい」という物語は、もはや一時的な非難ではなく、エクアドルにおける公共言説の構造的枠組みとなっている。これが「常識」を組織し、情緒的不快を和らげ、富裕層と貧困層といった分裂した社会の一部を象徴的に統合し、何よりも国家の複雑な問題を単純化してしまっている。
しかし、この単純化には大きな代償が伴う。市民の受動性を助長し、説明責任を無効にし、エクアドルが本当に直面すべき課題への取り組みを妨げるのである。
「すべてが“コレアのせい”である限り、ノボアの責任でも我々自身の責任でもなくなる。」
ガロ・ベタンコート
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