エクアドル国会解散:ラッソ、ピチンチャの戦いの市民軍式典に参加する

深刻な政治危機と内政不安を理由に議会を解散し、総選挙を招集したギジェルモ・ラッソ大統領は5月24日、キト南部キトゥンベ(Quitumbe)にある政府プラットフォームに向かった。政権発足2周年記念として「国民への報告」を行い、自らが大統領を務めた2年間を評価するとともに、エクアドルを独立へと導くピチンチャの戦いを祝う式典に参加するためだ。

ラッソがプラットフォームに到着したのは11時30分、妻のマリア・デ・ルルド・アルシバル(María de Lourdes Alcívar)と一緒にこの場所にやってきた。国歌斉唱で歓迎を受けた大統領には国防省のルイス・ララ(Luis Lara)大臣をはじめ、軍や警察の幹部が同行していた。国民への報告は予定より30分遅れ、11:30頃に始まった。ラッソが大統領着任後、初めて行った行事はTemplo de la Patriaで行われた市民・軍人のセレモニーへの参加だった。そして今回2回目にして最後となる訪問を行った。

このイベントには総勢(定員)400名の市民、知事、県知事、市民参加評議会と司法を除く他の政府部門の当局が参加した。最初に到着したのは与党の元議員は野党が大統領談義を目指す中、「刺し違え」というメカニズムを用いて国会の解散等の決定を行なった大統領の決断に拍手を送った。

国家元首の演説に先立ち、ラッソが2年間の政権運営で成し遂げた行動をまとめたビデオが上映された。その後、大統領は1822年5月24日の解放の英雄的行為に敬意を表し、スピーチを開始した。1983年に落成したTemplo de la Patriaは、歴史に満ちた場所である。アントニオ・ホセ・デ・スクレ(Antonio José de Sucr)はスペイン人をキトから追放することを目的にグアヤキルからキトへ解放軍を率いてやってきた。1822年5月23日の夜、スクレの軍勢2,971人は、戦いに最適な場所を求めて、ピチンチャ火山の斜面に向かった。5月24日の夜明け、ピチンチャ山の斜面で解放軍が、スペイン軍人でキト王宮の最後の統治者だったメルチョル・アイメリッチ(Melchor Aymerich)率いるスペイン王党派と戦った。そしてスクレの勝利、これがキトとエクアドル全土をスペインの支配から解放することにつながった。

ちなみにその後シモン・ボリーバル(ベネズエラの軍人・政治家、グランコロンビア共和国の創設者)の統合主義的熱意がエクアドルのグランコロンビア併合へとつながった。ボリバルの死後、1830年にグランコロンビアは崩壊し、その結果、新しい国家が形成された。1830年5月13日にグランコロンビアからの独立を宣言したエクアドルの初代大統領はベネズエラ人フアン・ホセ・フローレスが務めた。国防省はこの場所をエクアドル人が自分たちの遺産を守り、国の運命に対する信念を再確認するために奉仕すべき市民の聖域として指定し、1975年が陸軍工兵隊にTemplo de la Patriaを建設した。

憲法第147条を通じて国家元首は毎年、国家開発計画の達成状況および翌年の目標に関する報告書を国会に提出することが定められているがために行ったものだ。すでに大統領でなくなることが決まっているラッソ、そして国会がない状態での報告は国の歴史上、前例のない出来事であった。

大統領はエクアドルが経験したさまざまな危機、そして国民は常に「違いを解決し、前進するための最も便利なシステムとして民主主義」を選択してきたと強調した。そして、「時を経て悪化した危機へと陥った政治的対立」に終止符を打つ方法として、刺し違えを選択したと述べた。「国会を解散させることで、国家全体を支配することを目標に掲げた政治部門が主導した非制度化と権力の乱用という長い章を閉じることができた」、そして、この国の未来を決めるのはエクアドル国民であり「私は国民が自分の子供や家族のために最善の決断を下すと信じている」と述べた。

上述の通りこのタイミングでラッソは自らの業績を振り返った。本内容については別の記事にて紹介することとする。

今回のMuerte cruzadaに関する別記事はこちらから。

参考資料:

1. ¿Qué se celebra el 24 de Mayo?
2. Guillermo Lasso presenta su segundo Informe a la Nación y fue inédito

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