米国:先住民研究家「Vine Deloria Jr.」という巨人

個人的にとてもお世話になっている方(書物を通じて)にヴァイン・デロリア・ジュニア(Vine Deloria Jr.)がいる。ネイティブ・アメリカンに関わらず、先住民研究にとって欠かすことができない存在だ。彼の作品を読む中でふと、どのような人物なのかが気になり、以下備忘も兼ねてまとめるものである。

ヴァイン・デロリア・ジュニアはフランス人入植者の父親とスー族の母親を持つ。大恐慌のさなかの1933年3月26日にサウス・ダコタ州(South Dakota)のマーティン(Martin)で生まれた。そこは当時も今も、全米で最も貧しい地域の一つパインリッジ・インディアン保留地(Pine Ridge Indian Reservation)の近くにある。「デロリア」という姓は『北米インディアン百科事典』によると1800年頃に部族に取り込まれたデ・ローリエというフランス人毛皮商人の名前に由来する。曽祖父サスウェはナコタ族(ヤンクトン・スー)でホワイト・スワン・バンドの呪い師だった。祖父のティピ・サパはヤンクトンの酋長だった。1860年代にキリスト教に入信した初期のスー族の一人であったとされるティーピー・サパは聖公会教会のインディアン司祭を務めた。スー族の一部としても知られるラコタは彼らの言葉で自身を指すとともに、「友人、同盟者」という意味でもある。ラコタは我々の多くが想像するアメリカ・インディアン像に近い。つまり。「ワパハ(羽根冠)」を被り、馬を柔軟に乗り回し大平原を駆け抜けるからである。彼らの伝統的な住居はティピという移動式天幕である。なお、ラコタ部族とともにスー(Sioux)族を形成するのはダコタ(Dakota)、ナコタ(Nakota)である。インディアン・エピスコパリアン聖職者の子として生まれたデロリア自身もスタンディングロック・ラコタ族であった。

 

ラコタ族

ラコタと一言でいうことは簡単だ。しかしそれは一方で正しくない。なぜならラコタはさらに7つに分けられるからだ。 パインリッジ保留地に住むオグララ(Oglála)は「自ら分散する」という意味で、更に7つのバンドを持つ。スタンディングロック保留地に住むハンクパパ(Húŋkpapȟa)は「円形にティピーを張る」という意味でシッティング・ブルを出身とする。「黒い足(ブラックフット)」という意味を持つシハサパ(Sihásapa)、「2つの薬缶(ツーケトル)」を意味するオーヘヌンパ(Oóhenuŋpa)、「矢を持たない者たち(サン・アーク)」という意味のイタジプチョ(Itázipčho)、レオナルド・クロウドッグの出身でサウスダコタ州南西部のローズバッド保留地(Rosebud Indian Reservation)に大半が住む「焼けた脛(ブルーレ)」のシチャング(Sičháŋǧu)、そしてミニコンジュ(Mnikȟówožu)と分かれる。「水際にコーンを植える者たち」という意味のミニコンジュは1890年 12月 29日に起きたウーンデッド・ニーの虐殺(Wounded Knee Massacre)で有名である。この事件を補足するとアメリカ陸軍第7騎兵隊がゴースト・ダンスの禁止と、スー族のまじない師シッティング・ブルの逮捕へのミニコンジュの反抗に便乗しパインリッジ・インディアン保留地で 200人以上を虐殺したと言うもの。デロリアはこのうちのハンクパパであった。

 

先住民研究

米国の先住民研究は公民権運動やレッド・パワー運動による社会変革のうねりのなかで発展した。ヴァイン・デロリア・ジュニアをはじめとする研究者の目指すところは、政府の先住民政策に発言権を確保し、米国社会に変革を与えることにあった。先住民族はその豊かな文化や伝統にもかかわらず、侵略者たちによるあらゆる種類のジェノサイドによって、いないものとされてきた。人類学者は消えゆくものとして先住民の文化を記述してきたし、国家は先住民を消えゆくまでの間保護が必要な存在として扱った。なぜなら先住民は自分達で物事を決定する能力がないとされていたからだ。そして今もまだ差別と消去の力学で消され続けている。先住民研究は歴史的、社会的不均衡を是正するための研究分野である。先住民研究は学際的要素を持つ。そして研究者が目を向けるのは先住民の言語、政治、社会構造、知的伝統と幅広い。

 

デロリア・ジュニアという巨人

デロリアは、歴史上最も多作な先住民学者の一人である。29冊の本と200以上の論文を執筆した。72歳という若さでこの世を去らなければ、どれだけ多くの人を動かし、どれだけ多くの貢献を社会にもたらしたかわからない。デロリアは驚くほど多様な知的領域に生き、部族主権への力強い主張、民族自決の概念化と擁護、そして先住民国家にとっての空間と場所の重要性と神聖さについての説得力のある議論と分析を行ってきた。学術界以外でも功績を残しており例えば1960年代になると、部族間の利益団体であるアメリカ・インディアン全国会議(National Congress of American Indians)を主宰した。また、インディアン法開発研究所(the Institute for the Development of Indian Law)のような重要な組織をいくつも立ち上げ、その指導的な役割を担った。彼は部族国家の文化的アイデンティティを明確化させることで、その安定化を図れるようにと提言を続けてきた。この取り組みは部族国家やその他の虐げられた少数民族の政治的・法的立場を強固にし、アメリカ全体に利益をもたらす生態系の尊重につながるものでもあった。デロリアは時代遅れで偏見に満ちた社会規範や構造的しきたりに目を向け批判した。その一方善良な人々が正しい価値観と伝統に則って行動すれば、彼らや彼らが率いる組織は適切な判断を下すことができるとも常に信じていた。デロリアはネイティブに対するロマンチシズムや無知に基づく神話を解体することにも努めている。どちらであれ、神話は害であり真実は混ざり合ったものだとした。その混ざり合いを理解することこそ、どちらの側も完全に癒すことができるのだと彼は主張した。

1969年出版の書『Custer Died For Your Sins: An Indian Manifesto(インディアンの宣言書:カスターはその罪ゆえに死んだ)』で、デロリアは一躍、国民的シンボルとなった。この本は歴史書ではなく、むしろ個人的な情熱的な文章であった。デロリアは本を通じ白人人類学者たちによって歪曲された先住民に対するステレオタイプ、それに基づ気行われる国家やインディアン支援団体、キリスト教会による干渉を批判し、また神学者としてインディアンの宗教観の保護を訴えた。1970年出版の『We Talk, You Listen: New Tribes, New Turf』ではテクノロジーと企業の価値観がアメリカ生活を破壊していると主張し、救済の窓口としてインディアン文化の部族的基準への回帰を促した。『God Is Red: A Native View of Religion』(1973年)では、インディアンの宇宙観こそが救済の手立てという立場をさらに推し進め、アメリカン・インディアンの精神的伝統は時代遅れとは程遠く、現代世界が本質的に求めるものに対応できると主張しました。

デロリアは生涯をかけて先住民主権、土地の回復、民族自決を訴えた。その訴えは先住民自身へも向けられる。なぜなら先住民自身が立ち上がらなければ、社会は変えられないからだ。妻バーバラ、3人の子供フィリップ、ダニエル、ジャンヌ、兄弟、姉妹、7人の孫がいるデロリア・ジュニアは2005年11月13日、大動脈瘤破裂が理由で72歳でこの世を去った。自宅のあるコロラド州ゴールデンで病気療養中だった。

 

参考資料:

1. Vine Deloria Jr., Champion of Indian Rights, Dies at 72
2. A Tribute to Vine Deloria, Jr.: An Indigenous Visionary
3. What is Indigenous Studies and Why Study it?

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