人物:Google Doodleに登場したエクアドルの女性ドロレス・カクアンゴ

2021年10月26日、ドロレス・カクアンゴ(Dolores Cacuango)は140回目の誕生日を迎える。 彼女のイラストはGoogle Doodleとして2020年の彼女の誕生日に採用された。エクアドルにおける先住民運動のパイオニア的存在の彼女へのオマージュだった。彼女とともに描かれたのは雪を頂いたアンデス山脈とその麓の家々で、彼女の闘争の中心地であったエクアドル北部のカヤンベのコミュニティを表象しているとも考えられる。「Google Doodle」は祝日や記念日などにあわせた検索エンジン「Google」のロゴをデザインしたものだ。ドロレス・カクアンゴとはどう言う人物かを見ていこう。

 

別名ママ・ドゥル(Mamá Dulu)と呼ばれる彼女は1881年10月26日、エクアドル北部のピチンチャ(Pichincha)州カヤンベ(Cayambe)近郊のサン・パブロ・ウルク(San Pablo Urcu)の広大な土地で生まれた。両親はガニャン族で「ワシプンゴ(huasipungo)」と呼ばれる小さな土地を借り受ける代わりに、給料なしで荘園で働いていた。両親と共に田舎で暮らしていたが、経済的事由により学校に通うことはできなかった。だから当初は読み書きが出来なかった。このことが、先住民による教育へのアクセス改善へのモチベーションとなった。他の先住民女性同様、彼女は生計を立てるため15歳になると首都に移住した。結婚を強要される前に街に逃げ込んだという側面もあるようだ。

スペイン語を学ぶ機会を得たのは、軍人の家での家事労働を通じてのことだった。その家に多くの本があったことによる。先住民コミュニティが自らの幸せのために戦うには、この言語の獲得が重要だと気付いたのもこの時だ。この時キト(Quito)でも人種差別(特に先住民に対する差別)は蔓延しており、首都での生活は彼女にそれを嫌と言うほどわからせた。キトでの生活は独学で植民者たちの言語であるスペイン語の読み書きを学ぶきっかけと、同時に差別に対する批判的精神を育むきっかけと、先住民や農民が当時置かれている状況に対する意識を高めるためのきっかけを与えた。

カクアンゴの政治活動に影響を与えた人物の一人にフアン・アルバモチョ(Juan Albamocho)がいた。彼もまた先住民活動の先駆者だった。フアン・アルバモチョは、物乞いに変装し弁護士事務所の軒先に陣取り、施しを受けながら人の会話に聞き耳を立てると言うスタイルを取っていた。それを通じて彼は自分たち先住民を守るための法律があることを知った。カクアンゴが労働者階級の権利のために戦おうという明確な目的を持ち帰郷した時、フアンが故郷に持ち帰った法律に関して知識を得る。これがカクアンゴの闘志に火をつけたと言う。

カクアンゴは帰郷後、1905年にルイス・カトゥクアンバ(Luis Catucuamba)と結婚、9人の子供をもうけた。カヤンベ近くのヤナワイコ(Yanawaico)に質素な家を作り農家を営んでいた。残念ながら子どもは1人(ルイス・カトゥクアンバ:Luis Catucuamba)以外は皆死亡した。貧困や医療サービスにアクセスできなかったことによる。

彼女が先住民族のリーダーとしての力を初めて発揮したのは、ドロレスが44歳だった1926年のことだ。先住民ヘスス・グアラビシ(Jesús Gualavisí)が率いるカヤンベでの民衆の反乱と、フアン・モンタルボ農園労働者組合(Sindicato de Trabajadores Campesinos de Juan Montalvo)の行動が背景にあった。ドロレスは、この地域の農場でストライキを推進した女性グループの一員として、ケチュア語でリーダーシップをとったり、スピーチをしたりして、積極的に運動をしていたと言う。

 

苦しい生活を送っている中で起きた地域の地主たちによる虐待や、まざまざと見せつけられる従業員と領主との不平等は、ママ・ドゥルやトランシト・アマグアナ(Rosa Elena Tránsito Amaguaña Alba)ら女性活動家が主導するオルメード(Olmedo)町での農業ストライキを引き起こす。この時カヤンベでは、自らの権利を守る法律が尊重されるよう先住民自身が求めて行こうとする機運もあった。それはフアン・アルバモチョの影響にもよる。

ママ・ドゥルは徐々に先住民や農民を代表して政治的に関与をするようになり、後に共産党とともにエクアドル先住民連盟(Federación Ecuatoriana de Indios:FEI)を設立、エクアドルにおける先住民族の権利を擁護したり、土地や教育のために献身し、様々な抗議や一揆を推進するようになっていた。1944年のことだ。カクアンゴはフェミニズム運動の代表者でもあり、女性に対する暴力の廃止や、労働条件の改善を求める蜂起や反乱にも参加した。この頃の彼女は、カヤンベの大規模な先住民グループを惹きつける指導力とカリスマ性を持ち、先住民の若者を引き連れていたことから「狂ったドロレス(La Loca Dolores)」というあだ名で恐れられていた。

 

彼女とともに先住民を牽引した女性に上述のトランシト・アマグアニャやヘスス・グアラビシがいる。ママ・トランシト(Mamá Transtito)は1909年9月10日にカヤンベのペシジョ(Pesillo)生まれ。2003年にはエクアドルで最も権威ある賞と言われる、エウヘニオ・エスペホ(Premio Eugenio Espejo)の文化振興部門賞が送られている。先住民であった彼女の両親はビセンテ・アマグアニャ(Vicente Amaguaña)とメルセデス・アルバ(Mercedes Alba)と言い、ロベルト・ハリン(Roberto Jarrín)とアキレス・ハリン(Aquiles Jarrín)が所有していたカヤンベ火山の隣で働く農民「ワシプンゲロ(huasipunguero)」だった。トランシト・アマグアニャの両親は、長い間、雇用主からの肉体的な虐待に耐えていた。彼女の父親は、土曜日に無断で子牛を受け取りに行って頭を殴られたこともあった。先住民は自分たちの中のボスを「ガモナル(アシエンダのボスという意味)」と呼んでいたが、当時は先住民の農民に対する最も残酷な搾取の象徴でもあった。仕事の報酬は、ジャガイモや大麦、小麦などの食料品で支払われた。トランシト自身は6ヶ月間だけ学校に通い、その間に読み書きの基礎を学んでいる。7歳のときに既に両親の雇い主のもとで働いていた。洗濯、掃除、草取り、アシエンダの労働者への給仕をしていた。当時の7歳は家事をこなすのに十分な年齢と考えられていたのだ。14歳の時に25歳の男性との結婚を強要され、4人の息子を授かるも、アルコール依存症の夫は彼女を虐待し、家庭をサポートすることもなかったため、結婚生活は短命に終った。離婚後、彼女はコミュニティにおける活動を開始した。最初はエクアドル社会党に関連した組織に参加、後には土地や労働権を要求する1930年の「(先住民による)キトへの行進」を行い、1931年になるとオルメドの町で行われた農業ストライキも行った。その時の彼女は、家を破壊され15年間の潜伏生活を余儀なくされていた。1936年には労働法を、1937年にはコミューン法を、労働組合の保護の下で初めて制定し、農作業、労働者と雇用者の関係、コミューンの土地の防衛などを規制する一連の規則を盛り込むことに成功している。カクアンゴとともにエクアドル先住民連盟(FEI)を設立した後は、「ワシカミアス・イ・セルビシアス(huasicamías y servicias)」という家庭内搾取システムの終焉と、労働基準法の遵守を要求した。また国による先住民所有地の搾取が社会的・政治的圧力を用いて行われたことに対抗し、1954年トランシトは海岸の農民組織を支援し、「エクアドル海岸農業労働者連盟(Federación Ecuatoriana de Trabajadores Agrícolas del Litoral)」を設立した。

 

エクアドル先住民連盟について少し見ておこう。その社会的基盤は、中央・北部高地のチンボラゾ(Chimborazo)、コトパクシ(Cotopaxi)、カヤンベなどの地域にある「セントラル・パブリック・アシスタンス・ボード(Junta Central de Asistencia Pública(後のSocial))」の国営農場を中心とした土地をめぐるワシプングェロスの闘争にある。エクアドル先住民研究所(Instituto Indigenista Ecuatoriano:IIE)とは対照的に、FEIは先住民の武装勢力の積極的な参加を促す共同プロジェクトとして誕生した。連盟が目標とするのは 1)エクアドルの先住民の経済的解放を実行すること 2)文化的・道徳的水準を高め、その慣習や制度の良さを維持すること 3)国民統合の実現に貢献すること 4)すべてのエクアドル先住民が連帯関係を築くこと だった。これらの目標は、民族政策や経済政策など、創立者の高度なイデオロギーを反映し、作られた。1944年8月にキトのカサ・デル・オブレロ(Casa del Obrero)で開催された第1回会議ではさまざまな問題を網羅した33の要求リストを採択した。また、アシエンダでの人道的な扱いと無料医療サービスの提供、強制労働の廃止、先住民問題省の設立、成人教育と先住民の子供のための学校、労働法の遵守を要求した。その会議にはドロレス・カクアンゴ(共産党の中央委員会のメンバー)以外に、 ヘスス・グアラビシ(1926年に社会党の創設者の一人)、アグスティン・ベガ(Agustín Vega、ティグア協同組合のリーダー)、アンブロシオ・ラッソ(Ambrosio Lasso、ガルテの組合長)などが参加している。

 

ドロレスの最大の功績は1946年に作ったエクアドル初のバイリンガルスクールの設立だろう。先住民が無知だったり非識字だったりしたから。この頃彼らは騙され、欺かれやすくあった。彼女が教育の必要性を強く思ったのはこのようなことからだった。だから学校を作ることにした。カヤンベの学校では息子のルイスがスペイン語とともに民族のアイデンティティと密接な関わりを持つケチュア語を教えていた。当時の教育省はこの手の学校は「共産主義者や社会不安の温床になる」と考えていたから学校を作るためのプロジェクトを認めていなかった。政治家であり教師でもあったルイサ・ゴメス・デ・ラ・トレ(Luisa Gómez de la Torre)の支援は、学校の建設とその運営を可能にした。彼女自身もまた、地主を擁護する役人に反論したり間違いを正したりするために、労働法を暗記していたと言われている。

 

コロンビアの学者 マリア・イザベル・ゴンザレス(María Isabel González)はこの秘密学校の存在は多くの点で先駆的なものだったと述べている。彼女は「エクアドルの秘密の学校(Las escuelas clandestinas en Ecuador)」の中でも「ドロレスの学校は、彼女のコミュニティが持つ伝統的な知識を再認識させるという当時では考えられなかった学びを与えている」と語っている。

学校設立のためのプロジェクトはその後、先住民運動が盛んなチンバ(La Chimba)、ペシジョ(Pesillo)、モルルコ(El Morurco)にも拡大された。ラモン・カストロ・ヒホン(Admiral Ramón Castro Jijón)将軍による1963年の独裁は学校を閉鎖に追いやり、ケチュア語を教えることを禁止し、ドロレスの家を破壊し、彼女が身を隠さずにはいられない状況に追いやった。それでも彼女は夜中に同志を訪ねたり、政府に見つかるまでの間覆面運動を支援したりして活動を続けていた。

1964年には「進歩のための同盟(Alianza para el Progreso)」の援助計画を支持、カヤンベにいる1万人の先住民を引き連れてキトへ行進、大学劇場でエクアドル人全員に向けて演説を行い、先住民のための正義を求めた。農地改革のに関する法案は休閑地や効率的に経営されていない土地などを収用し、小作農などに分配するとしていた。

1989年、エクアドル教育省は1963年に廃止された学校を元に戻すことを目的とし、異文化間バイリンガル先住民教育局を設立。失われつつあるキチュア語や先住民文化をいかに取り戻し、保存するかの検討に入った。それから10年余り経った1998年、国民議会は先住民族がバイリンガルの異文化教育システムを持つ権利を認めた。エクアドルが多民族化し、ファースト・ネーションのアイデンティティを保持できる環境が構築されたのは、彼女たちの努力があったからに他ならない。だから彼女の功績は驚くほど大きい。エクアドルで最初に設立された「女性リーダーのための学校」は、ドロレス・カクアンゴにちなんで命名されている。

 

ドロレスはいつもエネルギッシュで、力強かった。また、共感を得る方法を知っていたから相手への接し方も常に毅然としていて、直接的だった。何が起こっているかを分析、理解する能力にたけ、どんな状況でも答えや論拠を示すことができる優れた能力を持っていた。小さい頃から正義感が強かったから、彼女が住んでいた農場の執事が娘をレイプするのを防いだことすらある。彼女は仲間が不当な扱いを受けないよう繰り返し行動をとってきたし、他の人の相談もよく聞いていた。誰からも頼りにされる存在だったのだ。彼女は搾取され、辱められ、拷問されることを余儀なくされている仲間の苦しさを誰よりも知っていた。もちろん彼女自身も不平等な社会に身を置く1人だった。

「先住民は、決して来ないとわかっている助けを待つために放置されているわけではない」そう語るドロレス・カクアンゴの晩年は、辛いものだった。体力は急速に衰え半身は付随になり、体重も大幅に減り、彼女の生き甲斐とも言えるコミュニティや組織への訪問がいつしかできなくなっていた。1971年4月23日、夫、息子のルイス、義理の娘、そして切っても切れない友人のマリア・ルイサに看取られ89歳でこの世を去った。

 

参考資料:

1. Dolores Cacuango, la líder ecuatoriana a la que Google le dedica su doodle
2. Comunistas, indigenistas e indígenas en la formación de la Federación Ecuatoriana de Indios y el Instituto Indigenista Ecuatoriano
3. HISTORIA ORGANIZACIONES INDIGENAS EN NUESTRO PAÍS
4. Radionovela Dolores Cacuango
5. PIONERA EN LA LUCHA POR LOS DERECHOS INDÍGENAS.
6. エクアドルの農地改革―その特徴と限界
7. Dolores Cacuango: la aguerrida personalidad de una líder que luchó por los derechos indígenas
8. Dolores Cacuango, la rebelde líder indígena ecuatoriana que luchó por la educación y la tierra
9. DOLORES CACUANGO (1881-1971)

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