自らの何かについて不満に思った時、それはビジネスになり得る。さらにそのビジネスに困難が伴いそうなとき、心は奮い立ち新たなる挑戦へと向かう。マダム・ウォーカーの場合もそうだった。
マダム・C・J・ウォーカー(Madam C. J. Walker)ことサラ・ブリードラヴ(Sarah Breedlove)は小作農オーウェン(Owen)とミネルバ(Minerva)のもとに1867年12月23日に生まれる。6人兄弟で姉ルベニア(Louvenia)と4人の兄弟アレキサンダー(Alexander)、ジェイムス(James)、ソロモン(Solomon)、オーウェン Jr(Owen Jr)がいた。両親はルイジアナ州マディソン教区のプランテーションで奴隷として働いていた。そして彼女の兄妹もまたロバート・W・バーニー(Robert W. Burney)のマディソン・パリッシュ(Madison Parish)プランテーションの奴隷であった。彼女の母親は1872年にコレラのために亡くなり、再婚した父親も1年後に他界した。その結果7歳に孤児となってしまう。14歳、モーゼス・マクウィリアムス(Moses McWilliams)と結婚した。7歳以降ともに住んでいた義兄ジェシー・パウエル(Jesse Powell)の虐待から逃れるためだ。1885年6月6日には娘レリア・マクウィリアムス(Lelia McWilliams)が生まれる。1887年にモーゼス死亡後の1894年にジョン・デイビス(John Davis)と再婚するも1903年に離婚する。その後1906年1月、ミズーリ州セントルイスで知り合った新聞広告のセールスマンチャールズ・ウォーカー(Charles Walker)と1906年に結婚、1913まで結婚生活を送る。マダムC.J.ウォーカーという名はこの夫の結婚由来だ。ドラマはここから始まる。
「仕事とチャンスを黒人社会に生み出す、特に女性たちにだ」
「すべての黒人女性を向上させる」
それが彼女の口癖だった。
サラはアフリカに起源を持つ。彼女は他の女性黒人女性同様、独特の髪質や頭皮の悩みを持っていた。当時販売されていた苛性アルカリ溶液を含む刺激の強い製品は皮膚疾患やフケの発生、脱毛といった頭皮の病は当時の女性に多く、また良質とは言えない生活や衛生環境、食生活の乱れは脱毛の要因となっていた。
ある日髪の毛が抜けてしまったサラ・ブリードラブは奇跡の成長剤と出会い、脱毛が治った。アディ・モンロー(Addie Monroe)と彼女のヘア・ケア剤への感謝も込め、その商品を売ろうとするも、アディから拒否される。彼女曰く人は似たような人物から商品を買うのではなく、ブロンドでストレートな髪を持つアディのような人に憧れ、商品を買うのだと。
「黒人はみんな私の(髪の)ようになれれば、なんでもする。心の底じゃ、無理だと知っててもね。」かつての友人、そしてビジネスの最強のライバルであるアディの言葉は彼女の闘志に火をつけた。新規ビジネスに着手する前のサラは洗濯物を洗う仕事で1日1ドルちょっとを稼ぐのがやっとだった。サラが作った商品の売れ行きは上々だった。それでもより大きな黒人マーケットを目指し、家族全員でインディアナポリスに移住する。アディはしつこくこの土地まで追ってくる。
ドキュメンタリーに登場しないのは、サラがもともと最大のライバルとなるマローンの下で働いていたことだ。その仕事を通じサラはヘアケアに関する知識を学んだとされる。 1905年7月、サラ(37歳)はコロラド州デンバーに移り、マローンの製品販売を続けながら自分のビジネスを展開していった。アニー・マローンとサラの関係を壊したのは、マーロンのレシピを盗んだと非難したことによる。マローンは100年以上ヘアケア剤に石油ゼリーと硫黄の混合物を採用していた。
1906年、夫チャールズ・ウォーカーの広告や宣伝アドバイスを受け、サラは製品を一軒一軒売り歩き、黒人女性に髪の手入れやスタイリングの仕方を教えていた。また、娘にデンバーでの通信販売の責任者を任せ、夫と一緒にアメリカ南部と東部を回って事業を拡大した。
1907年にデンバーで事業を終了した後、1908年にウォーカーと夫はペンシルベニア州ピッツバーグに移住し美容院を設立。ヘアカルチュリスト養成のためのレリア・カレッジを創設した。1910年にサラはインディアナポリスにマダム・C・J・ウォーカー・マニュファクチャリング・カンパニー(Madam C. J. Walker Manufacturing Company)を設立。ここでドキュメンタリーと話がリンクする。なお、1913年にニューヨークのハーレム地区にオフィスと美容室を設け、アフリカ系アメリカ人の文化の中心地となった。
1911年から1919年の間、ウォーカーとその会社は絶頂期に数千人の女性を製品の販売代理店として雇い、1917年までには2万人近くの女性を育てたと言われている。彼女が当初より主張していたように、黒人女性の経済的自立の提唱者として「ウォーカーシステム」のトレーニングプログラムを開設した。これを通じ充実したコミッションを得るライセンス販売代理店の全国ネットワークを構築した。
Netflixでは4部作に分け、彼女のキャリアを教えてくれる。
1. The Fight of the Century(世紀の戦い)
2. Bootstraps(頼れるのは自分だけ)
3. The Walker Girl(理想の女性像)
4. A Credit to the Race(すべての黒人に捧ぐ)
彼女が生まれたのは奴隷解放宣言後のことである。彼女は虐げられてきた黒人社会、軽く見られてきた女性たちの役割を見直し、自立すること、戦うことの大切さを説き続けた。リンカーンの宣言で奴隷が解放されても黒人たちへの不平等な扱いに変わりはなかった。それもスウィートネスの白人によるリンチ殺害を通じて伝えている。スゥートネスはウォーカーの長年の弁護士フリーマン・ランサムの親族で息子とアイスクリームを買いに行った時に殺された。ちなみに奴隷解放宣言の第1部は1862年9月22日に発布され、第2部は南北戦争の2年目である1863年1月1日に発布されている。
ちなみにアディはアニー・マローンの要素を少し取り再構築した架空の人物だが、ドラマで描かれているような白い肌を持った黒人ではなかったようだ。
ヘアケアと化粧品の会社を設立して成功し、米国初女性億万長者になったマダム・ウォーカーはギネスブックにも掲載されている。なお、彼女が設立したアフリカ系アメリカ人の髪に特化した初の美容学校で、伝説の音楽家チャック・ベリーも学んだとされている。マダム・C.J.ウォーカーに従事する女性は白いシャツに黒いスカートというユニフォームを着て、黒いかばんを持って、アメリカやカリブ海の家々を訪問するのがスタイルだ。手にはブリキの容器にマダムの絵の入ったヘアポマードなどの製品を持っていた。これらの製品を使えば髪の成長は促進され、頭皮の状態を整えてくれる。なお、彼女が発明したとされるホットコームやケミカルパーマだが、彼女の創作物ではない。ただし、世に広めたという観点で言うと彼女の功績によるものが大きい。
マダムの個人文書はインディアナポリスのインディアナ歴史協会(Indiana Historical Society)に保存されている。 また、現存するニューヨーク州アーヴィントン(Irvington)のヴィラ・ルワロ(Villa Lewaro)と、インディアナポリス(Indianapolis)のマダム・ウォーカー・シアター・センター(Madame Walker Theatre Center、旧ウォーカー・マニュファクチャリング・カンパニー本社ビル)は彼女の遺産だ。国家歴史登録財として登録されている。
ウォーカーは1919年5月25日、腎不全と高血圧の合併症で他界した。51歳だった。ウォーカーの遺体はニューヨーク市ブロンクスのウッドロン墓地(Woodlawn Cemetery)に埋葬されている。
この物語はA’Lelia Bundles著の伝記「On Her Own Ground」を原作とする。
参考文献:
1. Inside The Madam Walker Netflix Drama
2. Madam C. J. Walker Website
作品情報:
名前: Self Made: Inspired by the Life of Madam C. J. Walker (邦題:セルフメイドウーマン 〜マダム・C・J・ウォーカーの場合〜)
制作: Janine Sherman Barrois
制作国: United States
監督: DeMane Davis, Eric Oberland, Lena Cordina
時間: 45–49 minutes x 4
ジャンル:Drama
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