パラリンピックに向けエクアドル国歌を歌う練習をする

歌えないわけではないけれど(ワールドカップ等のために覚えた)、パラリンピック観戦中にも歌う機会があるかもと国歌を歌う練習をしてみる。ラテンアメリカとスポーツという観点で言うと、ブラジル国歌を覚える方が活躍の機会は多そうではあるが、プライオリティ高くいくべきはエクアドルだと思うので、それを練習することとする。

エクアドル国歌は「万歳、おお祖国よ! (¡Salve, Oh Patria!)」だ。フアン・レオン・メラ(Juan León Mera)が1865年11月26日に作詞し、アントニオ・ネウマネ(Antonio Neumane)が1866年8月10日に曲を作った。ガエタノ・マガッツァーリ(Gaetano Magazzari)の「ピウス9世への賛歌(Himno a Pío IX)」に触発されて作られたと言われている。愛国的な歌詞ではあるものの、全ての章でスペインに対する思いが表現されており、国歌の中で最も他国への敵対的である国歌として知られている。ちなみに、この歌自体は本来6番まであるのだが、国歌として歌われるのはコーラスと、スタンザ2番である。昔は全ての歌詞を国歌として歌っていたようなのだが、1976年から1979年にかけてエクアドルを統治していたアルフレド・ポヴェダ(Alfredo Poveda)軍事政権が国歌を短くして歌うという決定を下した。歴史学者フェルナンド・ムニョス(Fernando Muñoz)によると、歌詞が長すぎて国歌をちゃんと歌える人が少なかったことがその理由だ。1977年3月官報310号、法令番号1277にその日以降に演奏される国歌の部分が定められてた。

上述の通り歌詞はスペインに対して攻撃的なものだった。それに対しては多くの反感もあった(※)と言われるが、それは当時の情勢による。歴史家でもあったアヤラ・モラ(Enrique Ayala Mora)がその理由を説明している。それによるとメラが「国歌」の歌詞を書いた年が「スペインがペルーに侵攻し、チンチャス(Chinchas)諸島を奪った時期」であり、この再征服の試みはラテンアメリカ全土で問題となっていたことが影響を及ぼした。また、スペイン艦隊はペルーリマ西部カジャオ(Callao)をも砲撃している。

 

国歌はコーラスと6つのスタンザから構成されている。

コーラス:エクアドルへの感謝
スタンザI :独立を達成するための約束と、エクアドルが自由を勝ち取るための闘争のきっかけを作った英雄
スタンザⅡ:独立のきっかけを作るために命を捧げた英雄
スタンザIII:ピチンチャ火山での英雄たちの勝利
スタンザⅣ:エクアドルの英雄たちが多くの犠牲を払った末に、スペインのくびきを克服し自由を手に入れた
スタンザV:エクアドル人は、自由であることの権利を決して失わないことを表明
スタンザVI:エクアドルを征服しようとする敵がいれば、エクアドルは大地を守る火山の怒りと強さを呼び起こす

 

時とともに国歌が変異していったのは、歌われる歌詞の長さだけではない(現代ではコーラス+スタンザⅡの組み合わせで歌われることが多い)。歌詞そのものもそうだし、曲の調についてもだ。2002年、国民議会と外務省文化局は、この国歌を作曲時よりも低い調で演奏することを決定している。また、多民族国家と言うこともあり、キチュア語版も作られ、コーラス版とキチュア語版が公式な国歌として認められている。

 

<コーラス>
Salve oh Patria, ¡mil veces!
¡Oh Patria! ¡Gloria a ti! ¡Gloria a ti!
Ya tu pecho, tu pecho rebosa.
Gozo y paz, ya tu pecho rebosa;
y tu frente, tu frente radiosa,
más que el sol contemplamos lucir.
Y tu frente, tu frente radiosa,
más que el sol contemplamos lucir.

<スタンザ I>
Indignados tus hijos del yugo
que te impuso la ibérica audacia,
de la injusta y horrenda desgracia
que pesaba fatal sobre ti,
santa voz a los cielos alzaron,
voz de noble y sin par juramento,
de vengarte del monstruo sangriento,
de romper ese yugo servil.

<スタンザ II>
Los primeros los hijos del suelo
que, soberbio; el Pichincha decora
te aclamaron por siempre señora
y vertieron su sangre por ti.
Dios miró y aceptó el holocausto,
y esa sangre fue germen fecundo
de otros héroes que, atónito, el mundo
vio en tu torno a millares surgir.

<スタンザ III>
De estos héroes al brazo de hierro
nada tuvo invencible la tierra,
y del valle a la altísima sierra
se escuchaba el fragor de la lid;
tras la lid la victoria volaba,
libertad tras el triunfo venía,
y al león destrozado se oía
de impotencia y despecho rugir.

<スタンザ IV>
Cedió al fin la fiereza española,
y hoy, oh Patria, tu libre existencia
es la noble y magnífica herencia
que nos dio, el heroísmo feliz;
de las manos paternas la hubimos,
nadie intente arrancárnosla ahora,
ni nuestra ira excitar vengadora
quiera, necio o audaz, contra sí.

<スタンザ V>
Nadie, oh Patria, lo intente. Las sombras
de tus héroes gloriosos nos miran,
y el valor y el orgullo que inspiran
son augurios de triunfos por ti.
Venga el hierro y el plomo fulmíneo,
que a la idea de guerra y venganza
se despierta la heroica pujanza
que hizo al fiero español sucumbir.

<スタンザ VI>
Y si nuevas cadenas prepara
la injusticia de bárbara suerte,
gran Pichincha! prevén tú la muerte
de la Patria y sus hijos al fin;
Hunde al punto en tus hondas entrañas
cuanto existe en tu tierra el tirano
huelle solo cenizas y en vano
busque rastro de ser junto a ti.

 

<コーラス>
我らは何度も汝を讃える 祖国よ!
おお祖国よ 汝に栄光あれ!汝に栄光あれ!
汝の胸には 汝の胸には 溢れんばかりの
汝の胸には溢れんばかりの歓喜と平和が在る
そして汝の笑みは 汝の笑みは
太陽よりも明るく輝く

<スタンザ II>
壮大なるピチンチャ山が誇らしげに飾る
この地の子らは
汝を永遠なる君主として喝采した
そして汝の為に血を流した
神は犠牲を受け入れ給うた
そしてその血は世界を驚愕させる
他の英雄たちの多産な種となった
数千人もの英雄たちが 汝の周りで立ち上がったのだ
数千人もの英雄たちが

 

 

国歌の歴史も簡単に見ていこう。1830年から1932年にかけて、グアヤキルの吟遊詩人ホセ・ホアキン・デ・オルメド(José Joaquín de Olmedo)が、新生エクアドルを称えることを目的としコーラスと4つのスタンザからなる詩を作曲するも採用されなかった。

1833年12月28日、官報125号を通じ6つのスタンザからなるCanción Ecuatorianaというタイトルの賛美歌が発表された。 1830年に匿名の作者によって創作されたもので、正式な扱いではなかった。 1838年、政府によって発行された小冊子「Poesías del General Flores en su retirada de la Elvira」に5つのスタンザとコーラスからなる国歌が登場。このとき第3スタンザは一部変更されている。その後これらの決定を覆しガブリエル・ガルシア・モレノ(Gabriel García Moreno)政権が真の国歌採用のためのプロジェクトを立ち上げた。

1860年、ガルシア・モレノはギジェルモ・フランコ(Guillermo Franco)が指揮するグアヤキルの分離独立派を打倒した。1865年にフアン・ホセ・アジェンデが、オルメド(Olmedo)が1830年に作った歌詞に対し曲を加える形で国歌にすればどうかと国民議会に提案するも、承諾されなかった。

1865年11月、上院議長のニコラス・エスピノサ(Nicolás Espinosa)は、国務長官であった詩人のフアン・レオン・メラ・マルティネス(Juan León Mera Martínez)に国歌の作詞を依頼。メラが歌詞作成後、フランスの作曲家アントニオ・ネウマネ(Antonio Neumane Marno)にメロディーを作ってもらうため、グアヤキルに送付。フアン・レオン・メラによる歌の完成版は、1866年1月16日にキトの週刊誌「El Sud Americano」に掲載された。1870年8月10日、キトの独立広場で初めてパブロ・フェレティ(Pablo Ferreti)率いるリリック・カンパニー(Compañía Lírica※)とマエストロ・アントニオ・ネウマネが指揮する第2大隊のバンドによって演奏された。この時ガブリエル・ガルシア・モレノは2度目の大統領を務めていた。

※反スペインが盛り込まれた国歌の妥当性については常に議論されていた。1913年にグアヤキル出身の作家ビクトル・マヌエル・レンドン(Víctor Manuel Rendón)が、アントニオ・ネウマネの音楽に歌詞を合わせた新しい国歌を提案するに至ったが議会で否決された。
※リリック・カンパニーは19世紀以降、スペインやラテンアメリカで、演劇と音楽を組み合わせたさまざまな種類のショーの上演を行ったプロのグループのこと。

 

エクアドル以外の国歌に関心のある方はこちらから。

 

参考資料:

1. ¿Por qué no cantamos toda la letra del Himno Nacional del Ecuador?
2. Himno Nacional de Ecuador

No Comments

Leave a Comment

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください