映画 “83歳のやさしいスパイ” からみるチリの高齢化

極めて残念な話ではあるが、時々ニュースで老人ホーム入居者への虐待やネグレクトの報道がある。一生懸命生きてきた人々が新しい生活を求めてそこに行くにはいろいろな理由があるだろう。自らの意思で向かうもの、家族と距離をおくためにそこに送られたものなどそれぞれだ。どのような背景で来たにせよ、新居は安全が確保され、皆が笑って過ごせる場所である必要がある。1分前の記憶を失ってしまうとしても、未来のことを描けなくても、その一瞬一瞬が楽しいと感じられれば、一緒にいる人たちの素敵な記憶となれれば、それはきっと誰にとっても幸せなことである。

セルヒオ・チャミー(Sergio Chamy)はアルゼンチンに住む83歳のごく普通の男性だ。3ヶ月前愛しの妻を失った。ある日不思議な求人広告に出会う。新聞に掲示されたのは、80歳から90歳男性を対象としたものだった。仕事内容は3カ月間高齢者施設に潜入すると言うもので、ミッションは老人ホームの調査。そこで依頼者の母親が虐待されたり、盗難にあっていないかを調べると言うものだった。

平穏無事でエキサイティングなこともなく過ごす年配者たちは、セルヒオ同様この刺激的な仕事に飛びつく。非日常を味わうにはもってこいで、老人ホームに入ることすら刺激になるからだ。

 

83歳で初めてスパイとなったセルヒオは最新のテクノロジーに四苦八苦するもiPhoneやカメラのつきメガネを使い報告を行えるようになる。生物は生まれたとともに毎日毎日歳をとっていく。一方の技術は日進月歩で、毎日毎日世に送り出されていく。だから「最新」に一瞬で適用し、それを自らの武器としろとするのには無理がある。セルヒオを通じてみる最新技術との格闘、失敗は我々の周りで日々起きていることであり、なんらおかしなことでもない。「私、疎いから」「こんなの、わからない」と投げ出すのではなく、自分の力とするチャレンジ精神こそ、いつの時代にも必要だ。そしてこのようなこともまた、人生にスパイスを与える。

調査を通じてセルヒオが見出したのは、とても大切で、とても本質的なことだった。彼の優しさは聖サンフランシスコ特養ホームの女性を魅了する。パーティーでキングになったセルヒオは大モテだったし、大切な友だちも出来た。彼と結婚を夢見る少女のような女性とも出会った。それでも彼は施設を離れる決心をする。もちろん約束の期日が近づいていたこともあろう。でも何かに気づいたからだった。

 

チリ出身の映画監督・脚本を努めるマイテ・アルベルディはセルヒオをこの上ないカバジェーロとして描いた。描いたというよりも、それが本来の彼の姿だった。とても人間的で柔らかく、スパイという言葉とは程遠い人物だった。彼の人柄、さらにはチャミーがスパイ活動に飽きてしまったこともあり、老人ホームを舞台としたフィルム・ノワール(犯罪映画)から、いつしか孤立や孤独といった人間の心を映し出すものへと変わっていった。なお、はじめのシーンでは、ベネチアン・ブラインドやハイコントラストの照明など、ノワールの美学が強調されているし、ターゲットの健康状態をチェックしてはエイトケンへ報告を続けいわゆるスパイ映画の様相だった。その様子はいつしか変化し、他の住人と仲良くなった彼を中心とした介護施設という一つの社会を映す作品のようになった。人間の「老い」、人との「繋がり」にフォーカスされ、我々もそれと向き合うこととなる。

 

アルベルディは作品作りにあたって老人ホームでの事件を幾度となく扱ってきた元刑事エイトケンにたどり着く。彼は元連邦警察の捜査官で今は私立探偵をしている。彼によるとクライアントから長期療養施設にいる親が適切な扱いを受けているのかを調査してほしいという依頼は多く、このような依頼はおおよそ親を施設に預けた子たちの罪悪感からくるものだという。

この映画、少し不思議な作りがされている。それはセルヒオが到着する前にすでに、老人ホームで入居者の日常生活に関するドキュメンタリーの撮影が開始されていて、そこにセルヒオが加わる。もちろんセルヒオがスパイだなんて明かされない。なぜならそこではリアル潜入操作が行われるからだ。

この老人ホームは特異な点がある。それはここで生活する人の多くが女性であるという点だ。アルベルディによると、この老人ホームの男女比はチリではあまり見られない。なぜなら、おおよそ男性が施設に捨てられ、女性は自分が育てた子供や孫と一緒にいるからだ。一方老人ホームには結婚せず、子供も産まず、キャリアを積んで自立した女性が何十年も住むパターンも少なくないという。

 

COVID-19のパンデミックで世界中の長期介護施設が集中的に閉鎖された。高リスクゾーンにいる高齢者にウイルスが感染すれば、命の危険にさらされるからだ。施設にいる人々に出会えなくなったという映像は至る所で放映されている。家族とコンタクトできない高齢者の孤立感は強まっていった。しかしCOVID-19はこの点にも不思議な副反応を起こす。忘れられがちだった入所者は、それらの報道によって家族の心に蘇り、そのような場所にいる親のことを思う家族が増え、気に掛けるようになってきているというのだ。

2021年、チリにおける高齢者人口(※)は2,340,332人で、総人口に対する割合は12.24%、過去最高の比率となっている。高齢者人口率ランキングでは世界60位に位置する。1位を記録する日本(比率28.4%)と比べれば人口における高齢者人口は15%以上低いものの、チリでもまた高齢化していく社会が問題となっていて、対策をとっていく必要があるとされている。

2019年ピニェラ(Miguel Juan Sebastián Piñera Echenique)大統領は大阪でのG20サミットの枠組みで日本を訪問。フリオ・フィオル駐日チリ大使(Julio Fiol, Ambassador Extraordinary and Plenipotentiary of the Republic of Chile to Japan)と中前隆博外務省中南米局長はピニェラの夫人であるマリア・セシリア(María Cecilia Morel Montes)同席の元「高齢化社会対策に関する協力覚書」に署名した。高齢化が進んだ国日本にチリが高齢化対政策や取組に関する情報共有を求めるというものだ。

 

2030年には人口の3分の1が60歳以上になると予測されているチリ。この国の出生率は他の南米諸国と比較しても低く(女性1人当たりの子供数が1.8人)、また医療サービスの改善が死亡者数を大幅に減少させた事がこの比率を生み出している。この土地においても、高齢化社会に特有のがんや心血管疾患、神経変性疾患などの病態が深刻な問題となっている。そして来る高齢化社会に備えるべく政府は「高齢者に優しい街づくり(Ciudad amigable)」プロジェクトなど、60歳以上の人々が安全に社会参加ができるような環境の整備に勤めようとしている。日本の「オレンジプラン」などコミュニティの教育を通じた認知症対策計画の導入などにもチリは興味があるという。

 

高齢者は閉じ込めておくべき存在ではない。なぜなら先駆者たちから学ばなければならない多くのものがあるからだ。そして我々の心の支えでもあるからだ。この映画を見て感じるがまま、親や祖父母、親戚に連絡を取ってみるのも悪くない。

 

舞台となる老人ホーム「サンフランシスコ・デル・モンテ(San Francisco del Monte)」はサンティアゴの南西45km、マポチョ(Mapocho)川の北岸に位置する同名の町サンフランシスコ・デル・モンテにある。チリ独立の英雄であるホセ・ミゲル(José Miguel)とハビエラ・カレラ(Javiera Carrera)兄弟の生誕地として知られるエル・モンテ(El Monte)は人口約2万5千人の町で、歴史的建造物で有名だ。1732年に設立されたサンフランシスコの古い修道院は、厚さ1メートル以上もあるアドービの壁のおかげで良好な状態を保っている。現在は石灰を用いて白く塗られたこの建物には、ペドロ・デ・バルディビア(Pedro de Valdivia)の命令でチリに持ち込まれた主祭壇を持つ1廊式の教区教会がある。教会の噴水は、カレラ兄弟のアシエンダの庭園にあった金属製の噴水を模したもので、1976年まで5ドル紙幣に描かれていたものだ。貴族がヨーロッパから持ち込んだ古い石柱も町には残っており、それは建築的・装飾的価値のみならず、農民が牛車を曲がるときに手すりを支えるための角柱の役割を果たしていた。この4本の柱の中心には、カレラ兄弟の宝物があるという伝説もある。老人ホームが入っている建物は、市内で最も大きく、人目を引く建造物の一つ。遺産地区には、学校、修道院、市庁舎、アドービ建築の家々が並んでいる。

なお、スペイン人の侵入前この土地には先住民族ピクンチェ(picunche)族が住んでいた。1500年代末にスペイン人クレオールやメスティーソ、フランシスコ会の修道士がこの土地に住み着いたことがきっかけで典型的なクレオール村が形成されていったという。

※高齢者人口とは65歳以上の人口のこと。

 

参考文献:

1. 日本とチリとの間の高齢化社会に対する協力に係る覚書の署名(外務省)
2. グラフで見るチリの高齢者人口の割合は高い?低い?
3. CONOCE EL MONTE: LA LOCACIÓN FÍLMICA DE EL AGENTE TOPO
4. Chile, país viejo 

 

作品情報:

名前:  EL AGENTE TOPO(邦題:83歳のやさしいスパイ)
監督:  Maite Alberdi
脚本:     Maite Alberdi
制作国: Chile, United States, Germany, Netherlands, Spain
製作会社:Tribeca Film Institute
時間:  89 minutes
ジャンル:Documentary
 ※日本語字幕あり

1 Comment

  • miyachan 08/29/2021 at 01:34

     映画「83歳の〜」を見たくなりました。女性にモテるための鉄板の方法が学べるかもしれない!シネスイッチ銀座で上映中のようですね。
     連日のブログ更新、毎日チェックさせていただいてます。政治、音楽、文化、ジャーナリズム等々、リンクも含め膨大な量と深い内容に消化不良状態です。ブログ作成はその何十倍もの労力が必要のはず、Marinaさん無理されないでね。

    Reply

Leave a Comment

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください