(Photo by Elias Rovielo)
キトの歴史地区にはカントゥーニャ(Cantuña)と言う名のついた店がいくつかある。カントゥーニャはこの土地で生まれた伝説に登場する主人公だ。この伝説にはいくつかのシナリオがある。特に主人公の出自については様々だ。あるものにはカントゥーニャは偉大な戦士ルミニャウイ(Rumiñahui)の直系の子孫とされていたし、他の物語では母親は先住民、父親がスペイン人の混血とするものもあった。作家のフアン・デ・ベラスコ(Juan de Velasco)はその著書「キト王国の歴史(Historia del Reino de Quito)」の中で、カントゥーニャについて語っている。それによるとアタワルパ(Atahualpa)の財宝のありかを知っていたルミニャウイの役人ウアルカ(Hualca)の息子でコンキスタドールからそれを隠すのを手伝ったという。街が征服者に焼かれている間に、カントゥーニャは父を失い、スペイン人エルナン・フアレス(Hernán Juárez)に引き取られた。なお、1574年に死亡したとしている。
この様に出自に関する言及は色々とある。一方で伝説において完全に一致しているのは、この人物がサンフランシスコ教会のアトリウム(※)を作ったということ、そして悪魔を出し抜いたということだ。話はおおよそ以下のようなものだ。
ある日、キトの司祭長がカントゥーニャのところにやって来て、未来のサンフランシスコ教会のためにアトリウムを作ってくれないかと頼んだ。カントゥーニャは誇らしげに ” Si, por cierto! ”と応じた。
カントゥーニャは建設を始めるも、与えられた時間は有限で非常に短かく、期限内での仕事完遂が難しいことに気付く。納期まであと1日というときになっても、未だ吹き抜けが完成していない状態で、約束を守れない無力さにカントゥーニャは絶望した。彼の悲しみや苦しみは地獄の主ルシファーに届く。
悪魔はカントゥーニャに提案をする。朝6時の鐘が鳴るまでに、すべてのレンガとモルタルを使って吹き抜けを完成させてあげよう。その代わり約束が達成された暁には悪魔にカントゥーニャの魂を捧げよというものだ。カントゥーニャは約束を守りたいという一心で、悪魔と契約を締結する。悪魔は笑っていた。なぜなら自分のディアブリートス(小悪魔)は最も優れた石工であり、あっという間に仕事を終わらせることができるという確信があったからだ。街が暗くなるとすぐ何千もの小悪魔たちは仕事に着手した。
悪魔たちはものすごい勢いで仕事を進め、みるみると立派な建築物が出来上がっていった。制作風景を見ていたら、このままでは自分の命が奪われてしまうだろうことが容易に想像できた。だからカントゥーナは悪魔を騙すことにした。カントゥーニャは工事の進捗を見守るように、ディアブリトスたちの作業現場に足を踏み入れた。すると壁のモルタルでまだ乾いていないところがあった。彼はそこから石を1つ取り外して、ポンチョの下に隠し入れた。ディアブリトスたちはあまりに仕事に夢中だったから、カントゥーニャがそんなことをしたことなど全く気が付いていなかった。
朝が来て、悪魔とカントゥーニャは新しく建てられたアトリウムの下で会った。悪魔はカントゥーニャに、魂を手放す覚悟があるか、と尋ねた。6時の鐘の音が聞こえてくると、カントゥーニャは笑いながら、悪魔に新しくできた壁をよく見てみないかと言った。驚いたことに、一個の石が足りていない、2人はそれに気が付いた。6回目の鐘が鳴りおえるとともに契約は破棄された。約束が守れなかったからだ。カントゥーニャは一つの石を取り出し悪魔に見せた。単なる人間に最も簡単に騙されてしまったとにルシファーは茫然とした。カントゥーニャはこのようにして自らを救い、悪魔は馬鹿にされたと感じ報酬を受け取らことなく地獄に帰っていった。でも悪魔は置き土産もした。それは時代が変わってもこの建物は変わらないとするものだ。
フランシスコ・カントゥーニャは実在する人物だ。キテーニョ(キトの人々)伝統と伝説の専門家であるマルコ・チリボガ・ビジャクリアン(Marco Chiriboga Villaquirán)は「この先住民の実在を証明するだけでなく、レンガ職人としての彼の功績や、フランシスコ修道会への寛大な寄付に関する記録がある」と語っている。国家歴史資料室をはじめとする数多くの歴史資料の中にも18世紀に生きた人物として記されている。
彼の生きた時代はスペイン人の到着でキトの町が荒廃していた、そんな頃だった。スペイン人のエルナン・フアレスはカントゥーニャにキリスト教の教育を施した。鍛冶屋兼錠前屋を営んでいた彼は、サン・ディエゴ(San Diego)とサン・フランシスコ(San Fransisco)の修道院で専門的な仕事をしていた。資産家だったカントゥーニャは6軒の家を持ち、ヌエストラ・セニョーラ・デ・ドローレス(Nuestra Señora de Dolores※)の礼拝堂を建てるのに十分な財力を持っていた。それだけでなく、礼拝堂の中にはサン・アントニオなどの聖人の祭壇画だけでなく、カントゥーニャ自身の名を冠した祭壇画もある。1766年に荒廃したベラクルス(Vera Cruz)礼拝堂を修復させ、フランシスコ会から自身の埋葬の場を買い取った先住民は現存するサンフランシスコ修道院の鉄扉も作ったとされている。キト・エテルノ財団(Fundación Quito Eterno)の研究部長のパブロ・ボアダ(Pablo Boada)は「植民地時代、礼拝堂に埋葬され、祭壇画を持つためには、財産とお金が必要だった」と述べている。
この教会を訪れたら、伝説のカントゥーニャが抜き取った石の場所を探してみるのも面白いだろう。なお実在した人物の遺書は国立歴史博物館に保管されている。
スペイン人の人種差別と妬みは、先住民が悪魔と契約しているという神話「エル・アトリオ・デ・カントゥーニャ(El Atrio de Cantuña)」を生み出した。そしてこの伝説は実在フランシスコ・カントゥーニャの上に成り立っているのではないか、そうボアダは語る。
しかし、カントゥーニャの伝説はこれだけでは終わらない。
カントゥーニャはフランシスコ会の修道院や教会建設に莫大な寄付をしていた。フランシスコ会の司祭たちが何度も何度も供物の由来を尋ねるから、カントゥーニャはめんどくさくなりこれらの人々を寄せ付けない回答した。彼の答えは「悪魔と契約していて、悪魔は自分の魂と引き換えに、自分が求めるすべての金を提供してくれる」と言うものだった。慈悲深い神父たちは、悪魔を祓い、カントゥーニャに受け取ったものを返納し、これ以上の貢物は要らないと言った。これもまた征服者たちが彼を恐怖と慈悲の混じった目で見るようになったきっかけとされる。なおフランシスコ・カントゥーニャは征服者エルナンから本当の子供のように育てられたこともあり、彼の遺産を受け継いだ。それもあり莫大な資産を保有したと考えられている。
※アトリウム(atrium)とは、ガラスやアクリルパネルなど光を通す材質の屋根で覆われた大規模な空間のこと。
※歴史地区のクエンカ通りとベナルカサール通りにある礼拝堂は1766年までは「ヴェラ・クルス礼拝堂」として知られていた。その年、フランシスコ・カントゥーニャが修復し、その名はカントゥーニャの礼拝堂とも呼ばれてもいる。サンフランシスコ教会の隣にある。
参考資料:
1. Cantuña
2. La leyenda de Cantuña se cuenta
3. La verdadera historia de Cantuña
4. Cantuña – The Man Who Tricked The Devil
No Comments