ボリビア50年目のクーデターとコンドル作戦

コンドル計画、またの名をコンドル作戦は米国が支援し実行された政治的抑圧と国家主義的なテロリズムのキャンペーンである。ラテンアメリカで展開されたそれは諜報活動や拘留、拷問を伴う尋問、国家間の移動、強姦、失踪や暗殺、虐殺を招いた。1975年に始まった南半球の新米反共独裁政権による共同犯罪は1989年まで続くこととなる。このときの米政権はジョンソン(Lyndon Baines Johnson)、ニクソン(Richard Milhouse Nixon)、フォード(Gerald Rudolph Ford Jr.)、カーター(James Earl Carter)、レーニン(Ronald Wilson Reagan)が率いていた。なお、ニクソン政権およびフォード政権で国家安全保障問題担当大統領補佐官や国務長官を務めたヘンリー・キッシンジャー(Henry Alfred Kissinger)やCIA長官だったジョージ・H・W・ブッシュ(George Herbert Walker Bush)も関与している。米政府は国家安全保障ドクトリンの名の下で軍事政権に対し拷問支援、技術支援、軍事支援を行った。これらの人権侵害の支援は政府から公式かつ直接的に米軍と軍事ジャンタに対して行われ、しばしばCIAを介した。

1976年に出されたCIAの極秘文書を調査した米歴史家のJ.パトリス・マクシェリー(J. Patrice McSherry)によると、1960年代から1970年代初頭、アメリカ陸軍の米州学校とアメリカ陸軍会議の国際安全保障関係者の間で、南アメリカにおける政治的反体制派からの脅威に対処する計画が立てられていた。このプログラムは、1970年代に軍事グループによる政府転覆のためのクーデターが相次いだことを受けて開発された。この計画はソ連との冷戦戦略の枠組みの中で行われたもので、共産主義、社会主義、ソビエト連邦の影響をラテンアメリカから根絶する事を目的とした。1975年11月25日チリ、国家情報局のマヌエル・コントレラス(Juan Manuel Guillermo Contreras Sepúlveda)長官は南米の反共諸国の治安当局者を招いてコンドル計画を開始する。その作戦に加わったのはチリ、アルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイ、ボリビア、ブラジルであり、後にペルー、エクアドルの軍事政権も加わった。上述の通り、本作戦は米国の息がかかっている。でも実はその国だけでなく、イギリス、フランス、西ドイツの情報機関も関与していたとされている。この国家テロリズムのための国際的な秘密組織は主な標的を政治的左派芸術分野、解放神学、人権運動などの運動に属する人々とした。1992年にパラグアイで発見された「恐怖のアーカイブ」には、この作戦で5万人が殺害され、3万人が失踪し、40万人が投獄されたと記されていた。

ボリビアにおいても軍事政権の時代があった。当時ボリビアはその政治的不安定さから、ウゴ・バンセル・スアレス(Hugo Banzer Suárez)のような軍事独裁政権が誕生しやい状態だった。今からちょうど50年前の1971年8月18日、ウゴ・バンセル大佐はサンタ・クルス・デ・ラ・シエラ(Santa Cruz de la Sierra)において革命的な軍事蜂起を成功させた。この時は左派フアン・ホセ・トレス(Juan José Torres)将軍がこの国のトップであり、この人物に対するクーデターだった。最終的にバンセルはラパスの守備隊を制圧したが、約500人が死亡し、権力闘争とは無関係のボリビア人が5,000人近くも追放されるという悲劇的な出来事だった。このクーデターに対するアメリカとブラジルの関与の度合いは明確になっていない。ニクソン政権からバンセルに対して無視することのできないほどの資金援助や助言が存在していたことは証明されている。米国という大きな後ろ盾を得たバンセルは、8月22日この国の大統領としての全権を与えられた。軍同士の抗争でわかりづらいところもあるから、少し整理してみよう。

トレスは1966年、アルフレッド・オバンド・カンディア(Alfredo Ovando Candia)将軍が主宰する軍事政権ユンタから労働大臣に任命された。翌年にはボリビア軍の参謀総長に就任し、1968年から1969年にかけては、国防最高評議会の常任書記を務めた。この間、トレスをはじめとする文官・軍人が中心となりオバンド政権が任務として担うべき政治的・思想的指針やプログラムの基盤を設計している。トレスは、軍事政権の綱領である「Mandato Revolucionario de las Fuerzas Armadas(武装勢力の革命的使命)」の作成者であり、ホセ・オルティス・メルカドとともに「国家発展のための社会経済戦略」の起草を担当した。1970年には軍の総司令官に任命され、ボリビア軍の代表として閣僚を務めた。

一方サンタクルス県の田舎出身のバンサルは、ボリビア、アルゼンチン、ブラジル、そしてテキサス州フォートフッドの装甲騎兵学校を含む米国の軍事学校に通った。ドイツからの移民であるゲオルク・バンザー・シェヴェテリング(Georg Banzer)の子孫であるバンサルは1961年に大佐に昇進、その3年後には個人的な友人であったレネ・バリエントス(René Barrientos)将軍から政府の教育文化省の責任者に任命された。ちなみに、軍人時代には悪名高き旧「アメリカ陸軍米州学校(U.S.Army School Of the Americas:SOA)」、現西半球安全保障協力研究所(Western Hemisphere Institute for Security Cooperation:WHISC、WHINSEC)にも通う。SOA = School of Assassin(暗殺学校)とさえ言われたこのパナマにあった機関は親米ゲリラに拷問技術・尋問法などの教育を施し、反米左翼政権の転覆させることを目的とし人材の教育などを行なっていたが、マヌエル・コントレラス(Manuel Contreras,)、マヌエル・アントニオ・ノリエガ(Manuel Antonio Noriega)、レオポルド・フォルトゥナート・ガルティエリ(Leopoldo Fortunato Galtieri)、ロベルト・エドゥアルド・ビオラ(Roberto Eduardo Viola)など、人道に対する罪で問われている人物を含む、南・中央アメリカ各地の警察官や軍人が通っていた。現在は米国ジョージア州フォート・ベニングに移転している。

 

バンセルはボリビア軍の右翼側についたことで、ますます政治に関心を示すようになり、また、もともとの権力主義もあいまってより多くを望むようになる。バンセルは1970年9月、ロへリオ・ミランダ(Rogelio Miranda)将軍が起こしたアルフレド・オバンド(Alfredo Ovando Candia)大統領に対するをクーデターにも参加した。クーデター後の政権は長くは続かなかった。ほどなくしてトレス将軍率いる部隊が国民左翼の軍事政権の樹立を目的とし、反乱を起こしたたからだ。労働者、農民組織、大学運動、忠実な軍人などが参加した民衆蜂起を通じて前政権を引き摺り下ろしたのであった。そして翌71年のバンセルによるトレスのクーデターへとつながる。

トレス政権をクイックに振り替えろう。短い統治期間(1970年10月7日から1971年8月)ではあったものの、いくつかのことをした。例えばマティルデ(Mina Matilde)鉱山とコラス・イ・デスモンテ(Colas y Desmontes)鉱山を国有化し、アメリカの平和部隊を追放した。外交政策は多元主義と自決の尊重を特徴としており、サルバドール・アジェンデ(Salvador Allende)のチリと和解し、海への出口の交渉を大きく前進させた。開発公社(ボリビア国営企業のインキュベーター)と開発銀行を設立し、鉱山労働者に対する高額な賃金代替制度を確立した。またこの国における民主主義を強化、促進させることを目的に国民による直接投票、国家評議会、国民議会の設立などを試みた。人民議会(Asamblea del Pueblo)では炭鉱労働者、組合員の教師、学生、農民などが招集された。トレスはまた、労働者のリーダーであるフアン・レチン(Juan Lechín Oquendo)をボリビア労働組合(Central Obrera Boliviana:COB)の組合長に復帰することを承認した。これらの措置は、オバンドが先に行ったガルフ石油の国有化と相まってボリビアの保守的な反共産主義者たちや、ニクソン政権の怒りと不信を買った。なぜなら彼の戦略は国を左翼的な方向に導いていくものだったからだ。トレスはまた「国家の政治的憲法-革命政府-ボリビア共和国-1971年」を起草した。

クーデターで追われたトレスはチリのサンチアゴに亡命した後、アルゼンチンのブエノス・アイレスに避難した。元大統領は、その約5年後、バンセルの許可を得たビデラ政権と関係を持っていた右翼「死の部隊」に拉致・暗殺された。彼の殺害こそ「コンドル作戦」の一環でなされたものだった。

1976年6月1日の夜、トレスはブエノス・アイレスで誘拐された。元大統領は武装した民間人グループに車で誘拐された。実はトレス誘拐の1週間前にこの地に亡命していたウルグアイの元下院議員2名は遺体で発見されている。死亡したのはゼルマー・ミシェリニ(Zelmar Michelini)とエクトル・グティエレス・ルイス(Héctor Gutiérrez Ruiz)で、遺体確認の3日前に誘拐されていた。

 

ペロン派政権を終わらせた軍事クーデター以来、ブエノスアイレスにたどり着いた政治亡命者は迫害、殺害されてきた。トレスの失踪に際してウゴ・バンセル大統領はラパスから、失踪した元大統領に関する情報提供を白々しくも公表した。そして6月3日、トレスの遺体がブエノスアイレス近郊の地区サン・アンドレス・デ・ヒレス(San Andrés de Giles)で発見された。後頭部を3回撃たれ、目隠しをされていた。元大統領の遺体が発見された後のバンサルは「自分の友人」の訃報を聞き24時間の喪に服すことを宣言している。実は数日前、パリでボリビア大使のゼンテノ・アナヤ(Zenteno Anaya)将軍も暗殺された。

遺体の発見はアルゼンチンにおいても、アメリカ大陸においても、さほど驚くことではなかった。それは上述のウルグアイ人以外にもいくつかの前例があったからだ。この時のアルゼンチン政府は、世界における自国イメージを損なうための「外国の陰謀」によるものだと、一連の事件を説明している。犯人逮捕の声明よりも先に、自国のメンツを擁護しようと努めたことについて、EL PAISは「極右の暗殺者を抑制することよりも、極左のテロリストを駆逐することに(政府は)注力しているようだ」と述べている。

バンセルは1978年に行われた選挙で、フアン・ペレダ・アスブン(Juan Pereda Asbún)将軍に敗北した。不正投票の疑いが出た選挙だった。というのも投票数が登録された有権者数よりも5万票多かった事による。ペレダは自ら再選挙を要求するも、それを実現させる前にクーデターを起こし、7月21日に大統領を辞任させた。バンセルもまたアルゼンチンに追放されるも1979年に帰国し、国内で最も強力な政党のひとつ「民族民主行動党(Acción Democrática Nacionalista:ADN)」を設立。大統領の地位を今一度狙う。1985年の選挙では敗戦するも1997年に返り咲く。汚職や縁故採用の疑惑があり2期目の大統領職の辞任を求められるも、居座った。良い噂はあまり出ていないように見向けられる彼も。コカインの原料となるコカ栽培を大幅に削減したことで、国際的に高い評価を得た。米国務省のプロフィールには、バンセルは「親しみやすく、形式張らないが威厳のある人物であり、交渉人でもある。彼はアメリカのことをよく知っていて、好きで、何度もこの半球と世界におけるアメリカのリーダーシップを支持していることを示してきた(中略)」と記載されている。

2014年3月11日、アムネスティ・インターナショナルは、ボリビアに対し、18年間の軍事政権下で行われた人権侵害に光を当てるよう求めた。なぜなら1954年から1982年の間に、異なる軍事政権下で350人以上が殺害されたり、行方不明になったりしているからだ。コンドル作戦におけるボリビア元大統領暗殺のきっかけを作った1971年8月18日のクーデターから50年が経った。それでも、犯罪に関与したボリビアの人物に裁きはくだっていない。これから先もバンセル自体が、例えば禁固刑になるなどといったことはないだろう。なぜなら、なんの罪も問われることなく2002年5月5日に彼は他界しているからだ。2001年8月、バンサルは大統領の任期を全うすることなく職を辞した。癌に侵されていたからだ。享年75歳だった。

 

ちなみに第35回カンヌ国際映画祭最高賞パルム・ドールを取った作品「ミッシング(Missing)」はアウグスト・ピノチェト将軍のクーデター後に起きた米人ジャーナリストのチャールズ・ホーマン(Charles Horman)の殺害事件という実在の事件に基づいている。また、アルゼンチンのジャーナリスト、マルティン・シバックが書いた伝記「選ばれし独裁者」でもバンセルの人物像が描かれている。例えばそれは「個人的な友人にはすべてを、無関心な人には何も、そして敵には棒を」という哲学についてだ。

 

参考資料:

1. Se cumplen 50 años del golpe de Estado de Hugo Banzer contra Juan José Torres en Bolivia
2. El expresidente boliviano Juan José Torres, secuestrado en Argentina
3. Operación masacre
4. El descalabro de Torres y otras desgracias
5. A 50 años del golpe de Estado de Hugo Banzer en Bolivia

 

 

 

 

 

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